『こんなふうに、暮らしと人を書いてきた』
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<書評>『こんなふうに、暮らしと人を書いてきた』大平(おおだいら)一枝 著
◆苦闘経て生み出される文体
訪ねた台所は300余り。著者は無名の生活者を訪れ、台所でインタビューを重ねてきた。ひたすら耳を傾ける姿勢に、胸につかえていたものがぽろり、涙を流す人もいる。
台所から人生を見つめる文章に多くのファンを持つ著者が、本書では、書き手として歩いてきた道のりを記した。
書く仕事を目指して福祉職を辞めて上京したときからとれないとげ。「あなたの書いた文章なんて誰も読まない」と、思い上がった文章を書かない心がけを教えた「ボス」のもとでの修業。こどもを育てながらフリーランスとして模索した30代。40代の終わりに台所の連載が始まった前後の経緯では「企画」の舞台裏が明かされる。
大放出なのだ。「悲しい話」を「悲しい」と書いてはいけない、といった書く技術から、いつでも企画を3本出せる準備を怠らないといった心得、フリーランスの懐事情まで。
中でも驚かされたのは、ボスに内緒で引き受けた仕事がばれたエピソード。日頃穏やかなボスの静かな怒りのくだりには震え上がった。裏切りの記憶は長い時間を経ても自己嫌悪と痛みを伴うはずだ。
そこでふと疑問が湧いた。著者はなぜここまで経験を開陳するのか。
過去に「台所」シリーズを地元でやりたい、という申し入れが数人の読者からあったと著者は書く。触発され「私も書きたい」と思う人が少なからずいるらしい。
著者はファンの気持ちを否定せず、タイトルどおり、余すことなく自身の「書くこととは」を伝えた。ちりばめられたアドバイスは、「書くという行為は尊い」と記す著者の取材対象者や読者への感謝と連帯の思いを込めた「恩送り」だ。逆説的だが、そのような構えで読者と向かい合う著者だから多くのファンを得たのではないか。
ボスの言葉を跳ね返す結果を出した著者。けれど読み終えたファンは、あの沁(し)みる文体が「何を大切に生きるか」に苦闘した長い時間を経たものだと知るだろう。そのとき、私も書けるかもという気持ちはしぼむかもしれない。
(平凡社・1760円)
エッセイスト・作家。著書『東京の台所』『男と女の台所』など。
◆もう一冊
『イリノイ遠景近景』藤本和子著(ちくま文庫)