『非美学』
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限りない不信
[レビュアー] 小倉拓也(フランス哲学研究者)
迷宮のような本だ。迷宮は、複雑で出口を見いだすことが困難な建築物だが、実際には分岐のない一本道である。ボルヘス的な直線ではない。一本道である。私にとってこの本は、一本道だと信じることでしか歩きとおすことができないものだった。
その主題ははっきりとしている。ドゥルーズの「言葉」と「物」である。これらはそれぞれ「思考」と「感覚」と言い換えることができ、さらに「哲学」と「芸術」に重ねることができる。このとき、これら二者をある仕方で架橋するものが「美学」と呼ばれる。
この本は、ドゥルーズの試みに絶えざる不信を持ってつきしたがいながら、これら二者の関係を批判的に探究していく。それは、美学的な架橋とは異なる関係を探究することであり、「非美学」と呼ばれる。「非」は、何よりも二者の相互の分離と独立を、そしてそれを短絡させることのない干渉や影響の在処を指している。
そのような関係、つまり哲学とは何か、そして哲学にとっての芸術とは何かの理論的規定を明らかにすること、そこから哲学の実践的規定を引き出すこと、これがこの本のかけ金である。
ドゥルーズは前期に、カントを相手取りながら、感覚と思考の図式的媒介による調和的な連携を批判し、それらの暴力的な「不一致的一致」を理論化した。ドゥルーズの独創に帰されるこの逆説的な一致の身分に、この本は疑いの眼を向ける。そうした一致は、図式的媒介を、位置をずらして導入しなおしているだけではないのか、と。
この疑いは徹底的である。後期ドゥルーズは、図式的媒介なき感覚と思考の関係の探究を、「内容」と「表現」、「可視性」と「言表」などの新たな概念的二者をとおして展開していくが、この本はそれらを詳述しながら、ドゥルーズがいつも二者の通底を保証する第三項を密輸していることを問い続ける。二者をあくまで二者として、「自他」として救わなければならない。
この本が、ドゥルーズにおけるこうした理論的困難に理論的水準でどのようにけりをつけうるのかは、私にはまだはっきりしない。それでも、この本が最後に立ち返る実践の問いは、たしかにそれに応えようとするものである。
芸術は世界に「いくばくかの可能なもの」を穿つ。感覚の存在。それが作品であり、作品は私たちに見ることを、そして「眼を逸らす」ことを要請する。眼を逸らさなければ書くことはできず、ただそれをとおしてのみ、私たちは概念を創造し、思考する。
この臨界的な二者関係、自他関係が「批評」であり、「友愛」でもあるという。「友どうしの、ある背けあい、ある種の疲労、ある種の苦しさなのであって、これらが友愛を限りない不信もしくは忍耐としての〈概念の思考〉へと変換する」(『哲学とは何か』)。
一本道を迷宮たらしめる、この本の何年にもわたったであろう疑念、逡巡、撤回、消去は、そのような限りない不信としての友愛でもあったのであり、概念の思考だったのだと想像する。
この本は著者の博士論文をもとにしたドゥルーズ研究書であり、今日における批評の条件、創造の条件を探究するものとして、広く読まれるだろう。