『下町サイキック』
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“期待通り”のなかでうごめくロマンと現実
[レビュアー] 古賀及子(エッセイスト)
見えないなにかが見えてしまう中学生のキヨカと、その能力を理解しながら繊細な成長をあたたかく見守る、近所で自習室を運営する友おじさん。下町で生活感をもってそれぞれに暮らすふたりは、日々理屈では語れない妙な人間関係や状況に巻き込まれる。サイキック能力を通じ解決まではいかずとも落としどころを見つけながら、キヨカは世の中を見つめ、知っていく。
こう紹介されればおのずと、デリケートに描写されるだろう世界との出会いや、若い実感から漏れ出る哲学に耳をすませたくなる。下町を行き交うひとたちの機微にあふれる交感を、甘えた気持ちで期待してしまう。
実際、その期待は裏切られない。
キヨカは父母が離婚したばかりで、人と生きることやそれに付随する心情をまだどこか、自分でつかみかねている。友おじさんは大きな支えとして存在し、キヨカをはげまし、癒す。なんでも相談できる理解者としての友おじさんの存在の大きさからか、キヨカには中学生とは思えないくらい、自分のなかの実感を俯瞰する力がある。鋭い観察眼を自分に向けているさまがはしばしに描かれ、冴えて伝わる。
友おじさんの一家とキヨカの一家に血縁は無いが、野暮な約束事はせずとも近所のコミュニティとして十全に機能し、実利の面でも精神面でも両家は互助し太くつながる。そのさまはいかにも下町ならではだ。
ただ、そんな“期待通り”のなかに、現代的な感覚からすると思わず二度見するものの考え方が出てくる。
分かりやすいのは章題「清濁」のラストだろう。コミュニケーションに難を持ち、頼まれたわけでもないのだけれど、自分が世話になっている建設業者の敷地の交通整理をし続ける新さんと呼ばれる高齢の男性が出てくる。
近隣の人々は新さんを否定も肯定もせずに空気のように受け入れているのだけど、章の最後で急に雲行きがおかしくなる。新さんについてある現実が見えたとたん、友おじさんと、それにキヨカまでが一線を引くような態度をとるのだ。清濁あわせ呑んでいたはずが、やんわり苦笑いと一緒に気持ちを遠ざけてしまう。
何が起きているのか、最初はよく分からなかった。何かの間違いかとも思った。終章に近づくにつれキヨカ自身が、均等と引き換えに世界が目をつぶっているものの大きさにじんわり手を伸ばしはじめる。間違いではなく表現なのだと鈍い私もやっと解った。
キヨカが肌で受け取る生々しい感覚は、いつかの、そして今なお続く現実の不安定な手ざわりそのものだ。
この現存する下町の意外なシビアさは、物語の主題ではなくあくまで雑多で愛嬌のある舞台の一部として描かれる。表裏として、そこには見えない繋がりによる連帯や、近隣の見守りの視線が感じられる。
暮らしのイデオロギーが人生に及ぼす影響を、論じるのではなくファンタジックかつ現実的に描き出す。こんな選択肢があったのだ。