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川本三郎 私が選んだBEST5
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
近年、次々に翻訳出版される東アジア文学から目が離せない。
韓国の作家キム・フンの『ハルビン』は、明治四十二年(一九〇九)、旧満洲のハルビン駅で視察中の前韓国統監、伊藤博文を銃で暗殺した朝鮮の安重根を描いた歴史小説。
日本ではほとんど知られていない安重根(当時、三十一歳)の、暗殺実行に至るまでを詳しく辿っていて読みごたえがある。
韓国は日本の進出前に朝鮮王朝として五百年以上の歴史があった。それだけに日清戦争以後の日本の進出に激しい抗日運動が起きた。
彼らは同胞から「義兵」と呼ばれた。安重根はこの抗日義兵部隊に参加していて、支配者の象徴である伊藤を標的にした。暗殺が突発的な事件ではなかったことが見えてくる。
台湾では一九八七年の戒厳令解除後、民主化が進み、それまでタブーとされていた日本統治時代が語られ、その時代に活躍した文化人に光が当てられるようになった。
台湾を代表する現代作家、朱和之の『南光』は、昭和のはじめ、日本に留学し、写真の魅力に目ざめた写真家、鄧騰煇(通り名は南光)を描いた評伝小説。
台湾写真界のパイオニアだが、その生涯は台湾の現代史の流れのなかで苦難の連続。
日中戦争、太平洋戦争、戦後の国民党一党独裁……困難な時代にもかかわらず、ライカを手放すことなく写真を撮り続けた南光の持続する創作力が凄い。
増山実『今夜、喫茶マチカネで』は昭和へのノスタルジーと淡いファンタジーが溶け合った、七篇から成る素晴しい連作短篇集。
大阪、阪急電鉄の「待兼山駅」の商店街に昔ながらの喫茶店がある。時の流れで店仕舞いするのを機に街の有志に順に不思議な話をしてもらう。百物語形式。
街には昭和の香りを残す銭湯や大衆食堂がある。化石が出る場所もある。
街の描写が丁寧で「待兼山」という街と駅があると思いきや実は存在しない。
変だなと思って最後の話を読むと意表を突く展開。
仙台在住の佐伯一麦の『ミチノオク』は、道の奥、つまり東北各地を旅する紀行小説。秋田県羽後町の西馬音内から岩手県の遠野郷まで九つの旅。
東日本大震災を経験した作家だけに、旅では随所で死を考える。東北には死者と共に生きる文化があるという指摘が重い。
昭和七年生まれの黒井千次の『老いの深み』は九十歳になろうとする自分自身の一種の観察記。
昨日まで出来たことが出来なくなる。老いには悲しいことが多いが、それを自然なことと受入れる。
無理して若くあろうとする老人を「老い損った」人と評するのが面白い。
一日一度は近所を歩く。時折り遠くを見る。そうやって老いを受入れ、穏やかな日々を送る。かくありたい。