『隣りの女』
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あたしね、本当は谷川岳なんかのぼったんじゃないの
[レビュアー] 梯久美子(ノンフィクション作家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「隣室」です
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アパートの隣室に住む女の情事に、壁ごしに聞き耳を立てる主婦。向田邦子の短編「隣りの女」は、そんな場面から始まる。
ある日、いつもとは違う男の声が聞こえてくる。
「上野。尾久。赤羽。浦和。大宮。宮原。上尾。桶川。北本。鴻巣。吹上」
登山が好きだという男が、群馬県の上越国境にある谷川岳へ行く鈍行の停車駅名を順に言っているのだ。
深いその声に、顔も見ないうちからどうしようもなく惹かれてしまうサチ子。そこから、ミシンの内職をしながら子供ができるのを待つだけだった主婦の、一生に一度の恋が始まる。
「隣りの女」は桃井かおりと根津甚八の主演でドラマ化され、昭和56年5月1日に放送されている。小説の初出が「サンデー毎日」の同年5月10日号であることを考えると、おそらく脚本の執筆が先だったのだろう。向田が航空機事故で亡くなったのはこの年の8月22日だから、最晩年の作ということになる。
物語の後半、サチ子は男を追いかけてニューヨークへ行く。「何て言って出てきたの」と尋ねる男に、サチ子は「谷川岳へのぼりますって」と答える。だが、わずか3日の滞在で、サチ子は家に戻る選択をする。
〈「谷川はどうだった」
「あたしね、本当は谷川岳なんかのぼったんじゃないの」
「よせ!」〉
何があったかを察している夫との会話である。愚かしくもいじらしい、秘密の恋を描いた作品だ。