『「反・東大」の思想史』尾原宏之著
[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)
東大の権威 抵抗の系譜
かつては毎年、東大入試の合格者発表の直後に、複数の週刊誌が特集号を出して、全員の氏名と出身高校を堂々と載せていた。個人情報保護法のなかった前世紀の話であるが、自分の受験生時代から疑問に思っていたことがある。ふだん受験競争の弊害を説き、東大卒業者が多いとされる官僚への批判を繰り返しているリベラル派の週刊誌・新聞が、どうして「東大」ブランドへの信仰を煽(あお)るようなまねをするのか。
「東大」の権威の解体を唱えたり、「東大生も実務では役に立たない」と豪語したりするのに、本音の部分では東大を頂点とする大学の順位づけを信じている。この意識の二重性が、近代史を通じて日本社会にはしっかりと根づいているのである。まさしく思想史の問題だろう。
本書で尾原宏之はこの課題に果敢に挑んでいる。そもそも明治国家が近代化を進めるために、東大を頂点とする大学制度を作る過程と並行して、それに対する批判も声高に主張されていた。私学による高等教育を確立しようとした福澤諭吉の慶應義塾大学や、「民衆」に語りかける政治家とジャーナリストを養成した、大隈重信の早稲田大学。また、知識偏重の打破をめざす大正期の自由教育運動や、「インテリ」による指導を拒否した労働運動。「反・東大」の潮流もまた、無視できない勢力を同時代にはもっていた。
だがそうした動きも挫折や妥協に終わり、反対に東大の側が新しい知的潮流をとりこんで、みずからの権威を維持することになった。その歴史を見わたす尾原の筆致には、苦い気分が漂っている。多数の教科の学習によって培われた総合的な知力が、これまでの東大生の強みだとするなら、そうした「全体人」的な人格を大学教育を通じて養成する方法は、現状の東大の入試・教育のしくみ以外にも、さまざまにありうるのではないか。大学人としての真剣な問いに、読者の側も深く考えさせられる。(新潮選書、1980円)