『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史』
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<書評>『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史 サブカルチャー雑誌がつくった若者共同体』富永京子 著
[レビュアー] 小林哲夫(教育ジャーナリスト)
◆パロディで笑い飛ばす
1970年代から80年代にかけて、政治参加や社会運動と距離をおく「しらけ」世代が、愛してやまないサブカル誌があった。『ビックリハウス』である。政治的な不正、性差別、貧困など、社会では理不尽なことがまかり通る世の中について、『ビックリハウス』は真正面からは論じない。編集者と読者が一緒になって権力や権威を斜に構えて見つめ、ときに笑い飛ばしていた。
著者の富永氏は、若者の政治離れについて、『ビックリハウス』からの謎解きを試み、同誌について「社会運動のもつ教条性や規範性への抵抗感が、対抗性・政治性なきパロディという形で読者・編集者共同体に共有されていた」とみている。「教条性」「規範性」は何を指すか。社会運動を進めるにあたって、管理、抑圧からの解放を目標に掲げることは少なくない。ところが、運動そのものが原理原則で縛られて自由さがなくなり、管理、抑圧的になる危険性がある。
70年代、女性解放という思想から提起される女性の自立について、『ビックリハウス』はなにも異存はなかった。ところが、それが運動として実践されるとき、たとえばウーマンリブについて、『ビックリハウス』は冷ややかだった。運動のあり方について、われこそは正義ほかはダメという独善性を感じ窮屈な価値観と受け止め、支持できなかったからだろう。ときにアンサーメッセージとしておちょくった内容を発信せずにはいられなかった。
今日にいたる若者の政治離れは、政治から離れているのではなく、政治に関わる人たちとお付き合いしたくない、という面がある。教条性、つまり偉いリーダーの言うことは正義であり、何でも言うことを聞く。そんな社会運動に息苦しさを覚え政治が嫌になる層がいる。また、社会運動内でのセクハラ、パワハラがまかり通ることがあり、とても耐えられない。『ビックリハウス』には、社会運動の旧態依然体質でダメなところをパロディで教えてくれた先見性があったようだ。
(晶文社・2750円)
1986年生まれ。立命館大准教授、社会運動論・国際社会学。
◆もう一冊
『「社会を変えよう」といわれたら』木下ちがや著(大月書店)。現在の運動を詳解。