『沈黙の中世史』
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『沈黙の中世史 感情史から見るヨーロッパ』後藤里菜著
[レビュアー] 東畑開人(臨床心理士)
修道院の静寂から喧騒へ
カウンセリングには沈黙の文化がある。クライエントも治療者も、声がやってくるのを待ちながら、沈黙の中にあるかすかな気配を読み取ろうとする時間が流れるのだ。そこには、怒りが滲(にじ)んだ沈黙があり、よそよそしさの漂う沈黙があり、悲しみにくれた沈黙がある。思えば、私も普段の生活ではほとんど沈黙に耳を澄ましたりはしないから、カウンセリングというのはやはり特殊な時間である気がしてくる。
しかし、中世ヨーロッパの暮らしを描いた本書を読むと、沈黙はむしろ人間文化の基本的なモードだったのではないかと思わされる。たとえば、修道士たちは無言の神の声を聞こうと、沈黙の戒律を守り続ける。修道院は静かなのだ。だけどそれは、無音の生活というわけではなく、かすかな気配に耳を傾ける暮らしなのである。
だからこそ、声に力が宿る。王は力を示し人々を従わせるために「宣言」し、権力を持たない人々は抗議のために「叫び」をあげる。苦しむ人は「嘆き」、「うめく」。言葉は肉体的で、周りの人間をダイレクトに動かすのである。現代の私たちが議事録に残された文字でしか動かないのとは全然違う。
面白かったのは、中世後期に至る歴史の中で、沈黙が少しずつ破られていくことだ。封建制の中で黙らされていた俗人たちが、おしゃべりを始める。沈黙を強いられていた女性たちが声をあげる。そして、文字が溢(あふ)れるようになる。社会は言葉の喧騒(けんそう)で満ちていく。
すると、今の私たちの生活になる。この新聞を読んでいるとき、あるいはネットを見ているとき、あなたは無言だろうが、沈黙してはいない。あなたの頭の中には記事と動画の言葉が駆け巡っていて、うるさいくらいのはずだ。
でも、本当に誰かの心に関心を寄せるとき、私たちも修道士たちのようにじっと沈黙するしかないのではないか。沈黙を前に声の訪れを待つ時間が今でもあるのではないか。本書を読みながら、そんなことを思っていた。(ちくま新書、1100円)