『林達夫のドラマトゥルギー』
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『林達夫のドラマトゥルギー 演技する反語的精神』鷲巣力著
[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)
「書かない人」 自由な精神
この評伝に見える表現によれば、林達夫は「書かない人」だった。昭和の戦前・戦中・戦後を通じて活躍した知識人として高名だが、発表した論文・エッセイは多くない。ところが、編集をとりしきった岩波書店の雑誌『思想』や、平凡社の『世界大百科事典』、さらに翻訳したジャン=アンリ・ファーブル『昆虫記』が広く読まれ、知識の世界に大きな影響を与えている。
林の対談書『思想のドラマトゥルギー』(一九七四年)の編集を担当し、著作集の刊行にも携わった鷲巣力による周到な評伝である。林は芝居好きで、演劇と哲学との関係に深い関心を抱いてきた。また幼時に海外で暮らし、帰国生として学校に通った経験から、周囲に対する「役割演技」の意識が、その精神の基調をなしたと鷲巣は推測する。
ただし林の場合、役割の意識は無節操な順応主義に結びつくものではなかった。幼少時に目撃した貧しい人々の生活、また西洋哲学への傾倒が、正しいもの・純粋なものに対する強い憧れを、精神の底に植えつけたのである。青年期にはマルクス主義に近い立場をとったが、のちまで<聖なるもの>への共感を保ち続け、修道院机を書斎にしつらえていた=写真(本書より)=。
書いた作品の少なさは、そうした正しさ・純粋さへの意識の強さが一つの原因だろう。だが同時にその姿勢が、世の風潮から毅(き)然(ぜん)として独立し、「自由」を保持しようとする行動を生み出した。戦時中に軍の宣伝誌の編集に携わったことと、戦後の左翼思想全盛期に共産主義批判の文章を発表した行為との間には、スターリン主義体制を否定し、すぐれた芸術・文化を守ろうとする意志が一貫して流れているのだろう。
新しい思想や異なる信条に対する寛容と、正しさが破られたときに発する強烈な怒り。この二つが同居した林の稀有(けう)な人生は、「書かない人」でありながらも、自由な精神のありさまを雄弁に語っている。(平凡社、4180円)