『さやかの寿司』
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森沢明夫の世界
[文] 角川春樹事務所
心温まる人間ドラマの名手・森沢明夫さん。最新刊『さやかの寿司』で描くのは傷を抱えながら生きる人々の心に灯る優しい光だ。
舞台は女大将のさやかが腕を振るう「江戸前夕凪寿司」。個性豊かな常連客と極上の寿司が彩りを添えるこの物語は、どのような思いから生まれたのか。
創作の舞台裏とともに、映画化が決まった『おいしくて泣くとき』についても伺った。
『夕凪寿司』という寿司屋を執筆するうえで、気をつけたこと。
――お寿司屋さんを舞台とした今作。執筆の経緯からお聞かせください。
森沢明夫(以下、森沢) 角川春樹社長から寿司屋を書いてほしいと言われたんですね。和食なら書いてみたいと思い、そうお伝えしたんですが、「寿司だ、寿司にしてくれ」と押されまして(笑)。内心、困ったなと。お寿司って通な人が多いから、ちょっとでも変なことを書くと突っ込まれそうじゃないですか。
――寿司警察とかいますしね(笑)。
森沢 そうなんですよ。面白そうだとは思いましたが、寿司に関しては知らないことばかり。例えば、職人さんが握った寿司をポンッと置く台、あれは「つけ台」と言いますが、なぜそう呼ぶのかなど基本的な知識もない。専門用語や固有の表現もたくさんあるので、とにかく寿司に関する本を片っ端から読んで頭に入れることから始めて、なんとか行けるかなとなって書くことができました。
――女性を大将にしたのは?
森沢 これも角川社長からのお話にあったんですが、僕も書くなら女性を大将にしたかった。寿司業界は女性が排除されてきたという歴史がありますが、今という時代を考えれば、そこに新しい風を吹かせる主人公というのはかっこいいと思うんです。
――店名は「夕凪寿司」。海辺の田舎町の商店街にあるお店です。
森沢 夕方の、風が止んで海がすーっとフラットになるあの時間帯が好きなんですよね。空も優しいピンク色で世界が柔らかさに包まれているみたいで。そんな雰囲気の店にしたかったんです。しかもそこは、飛び切り美味しい店であってほしい。地元の人に愛される繁盛店で、でも観光客もふらっと来るような。となれば、やっぱり海の近くだなと。実は僕の行きつけのお寿司屋さんがまさにそんな感じなんです。
――大将のさやかが握る「ヒラメの邪道握り」はサンマの脂やキノコの粉末を使うなど独創的でとても美味しそうです。行きつけのお寿司屋さんのメニューですか?
森沢 いえ。魚に関してはオタク的な知識がありまして(笑)。子どもの頃から魚好きで、釣りも好きだったから、学生時代は年間百二十日くらい野宿しながら川や海に潜り、魚を釣っては食べてというのをずっとやっていたんです。知り合った漁師さんに魚にまつわるいろんなことをたくさんたくさん教わりました。小説家になってからも『渚の旅人』というエッセイの企画で、日本中の魚介を食べまくって。そうした経験から得た漁師さんの知恵や技、取材で出会った食のプロの話などを融合させたものですね。
――さやかの非凡さが伝わる一品だと思います。天才的とも言える腕を持つさやかですが、それ以上にふわふわとした柔らかさが印象的でした。
森沢 キャラクターには長所と短所、両方持たせるようにしています。今回のさやかは心に抱えている傷みたいなものがあるけれど、それを表に出せない短所というか特徴がある一方、頑張りすぎるぐらい頑張れるのが長所です。ただ、キツイ感じにはしたくなかった。その子がいるだけで空間が優しく和むようなお寿司屋さんにしたいと思ったので、ふわふわした綿飴みたいな雰囲気の女性になりました。
――祖父の伊助さんも癒しの存在ですね。伝説の寿司職人でありながらそれを押し出さず、さやかを見守る優しい眼差しを感じます。
森沢 さやかのおじいちゃんらしいおじいちゃんにしました。「夕凪寿司」という舞台そのものは、ちっちゃな世界にしたかったんですね。それでさやかの両親はすでに亡くなり、祖父と孫だけということにして。店を訪れる人々との関係を通して大きく広がっていく物語にしたいなと思っていました。
――そんな二人を手伝うのが住み込みで働く未來です。ツンデレぶりがめちゃくちゃキュートで、柔道の猛者でもある。
森沢 さやかがおっとりしているので、キリッとさせたかったんですね。できれば、ちょっと強いくらいにしたい。それで柔道をやっていたということにして。僕の小説って全部繋がってるんですね。ある作品の登場人物がまったく別の作品で大人になって出てくるとか。未來が憧れの先輩として慕う直子さんというのは、『ヒカルの卵』に出てきた直子さんなんです。
――物語の後半に未來と関わりのある人物として“伝助”の名前が出てきますが……。
森沢 『癒し屋キリコの約束』の伝助さんです。久々に登場させたいなと思い、どういう形がいいだろうかと。彼は不遇の環境にある人々を助ける仕事をしているので、未來にちょっと悲しい境遇を背負ってもらいました。
――悲しい境遇ということでは、まひろも同様の過去を持っています。
森沢 小説家って哀しいことに、気に入ったキャラクターを不幸にするのが仕事なんです。二人にはつらい過去を背負ってもらいましたが、今回はその背景にある親子関係を書きたいと思っていました。
物語で描かれる様々な形の家族に込めれた思い
――各章にさまざまな親子の形が描かれ、そこには「家族」と「ホーム」という言葉が出てきます。どんな思いを込めて使い分けされていたのでしょうか。
森沢 「家族」というのは人間を指していて、 血縁はあってもなくても、一緒に住む人が家族。でも、その一緒に住む人が必ずしも人生のベストパートナーとは限らない。大事なのは居場所、「ホーム」だと思います。国連や海外の大学の研究によると、 人が幸せになるには大事な項目が二つあるそうで、一つは良好な人間関係。もう一つは人生のハンドルを自分で握っていると実感していること。つまり、人に支配されていないということですね。その言葉を借りれば、良好な人間関係がある場所はホームになると思うんです。
――それが「夕凪寿司」。
森沢 「夕凪寿司」で醸成されるのは人と人の関係です。人間関係を良好にすることによって、人生のホームを作っていく。これってすごい大事だなと思っているので、この作品に限らず書いてきたつもりです。
――常連さんもホームを作る大きな助けになっています。仲卸でさやかに恋心を抱いている龍馬やトレーダーの拓人などはキャラクターとしても魅力的で、もっと出番があればいいのにと思ってしまいました。
森沢 実は、この物語はシリーズ化したいと思っているんです。僕の頭の中にはすでに世界観が出来上がっていて、龍馬や拓人の話もあるし、さやかにはなんとお兄ちゃんがいて、まさかのYouTuber(笑)。
――絶対読みたいです! ということは、さやかの物語もまだあるんでしょうか? ほんわかした雰囲気の裏に何があるのだろうと気になっていて……。
森沢 さやかのバックグラウンドはじわじわ小出しにしていこうと思っていて、今回はその取っ掛かりに相応しい物語を集めたという感じですね。最終的には『深夜食堂』みたいに繋がっていったらいいなと思っています。続きを書かせてもらえるかはこの作品次第だと思うので、よろしくお願いします(笑)。
――人物や作品が繋がることでより大きな物語になると思いますが、そこにはどんなお考えがあるのでしょうか。
森沢 今この瞬間、北海道にいる人も和歌山にいる人も沖縄にいる人も、誰もがそれぞれの人生を生きています。同じ時代に生きる別の人の人生に思いを馳せることで、たとえ苦しみを背負っていたとしても、自分だけじゃないと感じることができるかもしれない。そんな世界観を表現していきたいと思って書いています。
――そうした人生の交錯がもたらす感動を描いたのが『おいしくて泣くとき』でした。映画化が決まったそうですね。
森沢 小説家としては映画化されるというのはお祭りみたいなものなので、ワイワイ盛り上げてくださいという気持ちです。脚本はいただいても読まないんですね、いつも。映画は映画を作る方々のものと割り切るようにしているので。どんな作品になっているのか試写が楽しみです。
――それにしても、執筆された小説が次々と映像化されますね。
森沢 ほんと、ありがたいですね。僕は読んだ人の頭の中に映画みたいに映像が流れるように意識して書いてるんです。だからなのか、監督とかプロデューサーの方が読んでくださった時に、頭の中でもう映画になっているそうです。
――ご自身でも映像として物語を捉えているということですか?
森沢 僕が小説の舞台の中にいるという感じでしょうか。一人称の時だったら、その人物の背後からすっと憑依するようにして入って、その人が見ているものの匂いや感触、胸の痛みも感じていて、それを言葉にしています。
――キャラ設定はとことん凝ると伺っていますが、そういう理由もあるのですね。
森沢 もうね、面倒くさくなるくらい時間かけてます。あらすじも相当長いですしね。作品が繋がっていると言いましたが、それぞれの物語の中に伏線やリンクを縦横無尽に仕掛けていくのでどうしても長くなる。しかもそれ、物語の深いところに隠してて。あの言葉の意味が変わるとか、極論すると、物語の根幹的なところが変わっちゃうとか、それぐらいの爆弾みたいな仕掛けにすることもあります。ちなみに、その仕掛けは担当編集者にも到達できないレベルの深い層に仕込んでいるんですけど、極々稀に、それに気がつく読者がいて。どういう読み方をしたら気づくんだろうと、こっちが怖くなりますよ。若干悔しくもあるので、次はさらに深層に隠そうって(笑)。
――『さやかの寿司』にも深い仕掛けがあるんですね?
森沢 はい。でも気づかれないように書いていますから。ただもし気がついたら、まったく別の楽しみ方ができると思うので、ぜひ深掘りしてみてください。
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【著者紹介】
森沢明夫(もりさわ・あきお)
1969年、千葉県生まれ。早稲田大学卒業。2007年『海を抱いたビー玉』で小説家デビュー。『虹の岬の喫茶店』『夏美のホタル』『癒し屋キリコの約束』『きらきら眼鏡』『大事なことほど小声でささやく』等、映像化された作品多数。その他の著書に『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』『キッチン風見鶏』『おいしくて泣くとき』『ぷくぷく』『本が紡いだ五つの奇跡』『ロールキャベツ』等がある。