古臭いとあしらえない「ふつう」の小説
[レビュアー] 栗原裕一郎(文芸評論家)
大原鉄平「八月のセノーテ」(小説トリッパー秋季号)はとても「ふつう」の小説である。タワーマンションといった舞台装置の現代性を抜きにすれば、昭和の純文学と見紛うほどだ。
おまけに主題が「少年の葛藤と成長」とくる。地域の有力者で抑圧的な父の下、裕福ながら鬱屈を抱えた中学生男子が、幼馴染みで同級生の美少女や、憧れの先輩、粗暴な問題児の先輩らとの関係や事件を通して自我を確立していく。
だが、古臭いとあしらうことを本作は躊躇させる。登場人物たちの背景まで含めた造形が着実で奥行きがあるからだ。地に足の着いたリアリズムといいますか。
前回芥川賞を受賞した松永K三蔵『バリ山行』も「ふつう」の小説で、下馬評は高くなかった。受賞を予想しながら私も「え、獲ったの?」と驚いた口だ。芥川賞選評を読むと、松永作はその「べた」さゆえに評価されたようだった。
「「ふつう」の小説」とは、大原の林芙美子文学賞受賞作「森を盗む」を評して、選考委員の井上荒野が言った言葉だ。揺り戻しの機運を感じる。最近の純文学は自家中毒気味ですしね。
『文學界』10月号に、市川沙央による島田雅彦の新作『大転生時代』(文藝春秋)の長い書評が載った。その後「文春オンライン」ほかいくつかの文春ウェブ媒体にも転載されたのだが、これが炎上した。
『大転生時代』は、ウェブ投稿小説から発祥して一大ブームとなった「なろう系」と呼ばれる「転生もの」のフォーマットを借り純文学に仕立てた作品だが、市川の書評や島田の発言への反発が、なろう系読者や作者から噴出したのである。
「いまさら?」「上っ面」「見当外れ」「周回遅れ」などと散々だが、島田の「転生ものには他者がいない」「純文学がよって立つのは、ちゃんと他者と向き合って試練がある成長の物語」といった権威主義的な物言いにカチンときたというだけでなく、なろう系の生態系が既存の小説とは根本的に異なることへの無理解も多々指摘されていた。
興味深い論考も出て炎上も無意味でなかったように見えるが、純文学側が批判を受け留められるかどうか。