『カフカ断片集』
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「わからない」がわからせてくれること
[レビュアー] 頭木弘樹(文学紹介者)
『カフカ断片集―海辺の貝殻のようにうつろで、ひと足でふみつぶされそうだ―』(新潮文庫)からさらに厳選した13の断片。絶望的過ぎて思わず笑ってしまう言葉は疲れた心にぴったり。
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●カフカについて語り合う、マルケスと安部公房
今年は、フランツ・カフカ没後100年で、安部公房生誕100年で、ガルシア=マルケスの没後10年だ。たまたま数字がきれいに並んだというだけではない。この3人の作家にはじつは深いつながりがある。
カフカが40歳で亡くなった1924年、安部公房が生まれた。そして、日本で最初のカフカの単行本『審判』(本野亨一訳 白水社)が1940年10月に刊行された。定価1円50銭。残念ながら、あまりにも早すぎる出版で、6、7冊しか売れなかったそうだ。しかし、当時高校生だった安部公房がこの本を読んでいた。本人が対談で「高校のとき読んでいるらしい」と語っている(「カフカの生命」『安部公房全集 27 1980.1-1984.11』新潮社)。
戦後になって、中田耕治があらためて安部公房に『審判』を手渡し、そこからカフカを好きになったという。その後、安部公房は1951年に『壁―S・カルマ氏の犯罪』を書いて芥川賞を受賞する。この作品はカフカの影響があると評された。
一方、マルケスは大学生のときにカフカの小説と出合う。「ボゴタ大学に在籍していたガルシア=マルケスは、ある日、友人から借りた『変身』を下宿に持ち帰ると、そのままベッドに横たわり、さっそくページをめくりはじめた。書き出しの一行を目にしたときの驚きを、ガルシア=マルケスは『ベッドから転げ落ちそうになるほどの衝撃』と振り返っている」(大西亮「解説」『落葉 他12篇』新潮社)
他にもインタビューでは、「『変身』を読んだ時に、自分はいずれ作家になるだろうと思ったんだ」「こんなことができるとは知らなかった」「それまでは学校の教科書に出てくるわかりきったお決まりの物語しか知らなかった。でも、文学にはそれとはまったく別の可能性があると気づいたんだ」(『グアバの香り――ガルシア=マルケスとの対話』木村榮一訳 岩波書店)などと語っている。
安部公房もマルケスも、カフカに強い影響を受けている。でも、3者のつながりはそれだけではない。
マルケスの『百年の孤独』(鼓直訳 新潮社)が1972年に日本で初めて出版されたとき、最初はあまり反響がなかったそうだ。それをいち早く高く評価した作家が、安部公房だった。
初めて読んだときのことをこう振り返っている。「読んで仰天してしまった。これほどの作品を、なぜ知らずにすませてしまったのだろう。もしかするとこれは一世紀に一人、二人というレベルの作家じゃないか」(「地球儀に住むガルシア・マルケス」『死に急ぐ鯨たち・もぐら日記』新潮文庫)
また「永遠のカフカ」と題された1980年の新潮社文化講演会で、「あれは絶対読んだほうがいい」と絶賛し、「カフカとは対照的な世界を書いてるけれども」「カフカの影響というものを潜在的に受けていないということは考えられないんですよ」と指摘した(『安部公房全集 27』)。
1990年、初めて来日したマルケスと会ったときのことを、安部公房は大江健三郎との対談でこう語っている。「マルケスもカフカから来ていると思う。彼にそういったら喜んでいた。『審判』かなにか読んだら、翌朝目覚めて、私は小説家になっていたって」(「対談」『安部公房全集 29 1990.1-1993.1』新潮社)
●カフカの「断片」とは?
さて、そのカフカには短編小説もあれば長編小説もある。そしてじつはその他に、膨大な断片がある。
断片とは、短い、未完成な、小説のかけらだ。
普通、未完成なものより完成したもののほうがいい。かけらより、全体のほうがいい。未完成の飛行機に乗りたい人はいない。花瓶が割れてかけらになったらがっかりだ。
しかし、カフカの場合、未完はむしろ魅力となる。「未完であるということは、カフカの作品にとってきわめて特徴的である、と言うよりもむしろその本質的な性格である」と『決定版カフカ全集』(新潮社)第2巻の訳者解題で前田敬作も書いている。『アメリカ(失踪者)』『審判(訴訟)』『城』という3つの長編も、すべて未完だ。
「永久の未完成これ完成である」(『【新】校本宮澤賢治全集』第13巻上「覚書・手帳 本文篇」筑摩書房)という宮沢賢治の言葉が、カフカにもあてはまる。
「最後まで書くことがカフカにとって至上命令ではなかったから、読者は書き手が陥る『この小説を完成させねばならない』『この小説を完成させるためには(途中で前に進めなくならないようにするためには)ここではこうはしないでおいて、こういう風にしておこう』という義務的作業に基づく計算につき合わされることがない」(保坂和志『言葉の外へ』河出文庫)
そして、小さなかけらであることも、また魅力となる。俳句や短歌がそうであるように、小さいからこそ大きな世界を内包できることもある。葉っぱの上の小さな水滴が、世界を映し込むように。松尾芭蕉は俳句について「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし」という言葉を残している(土芳『三冊子』『新編日本古典文学全集88』小学館)。「現実をとらえることができたとき、そのイメージのひらめきが消えないうちに、書きとめろ」というような意味だろう。カフカも、なるべく中断なしに、一気に書こうとした。頭のなかにあるイメージを、いますぐ、なるべく早く書く。短さには、一気に書けるというよさもある。
もちろん、断片の中には、たんなるメモとか、うまく書けなくてそのままになったものもあるだろう。しかし、その多くは、“もともと断片というかたちでしか書けなかったもの”だと思う。起承転結などの型には収まらず、言葉数を増やせばかえってぼやけてしまう、純粋な結晶のような作品たち。
カフカ自身も、ある自作について、こう書いている。
「これは断片であり、またいつまでも断片のままということになるでしょう、こうした未来形が、この章に最大の完結性を与えるのです」(クルト・ヴォルフへの手紙 1913年4月4日『決定版カフカ全集9』吉田仙太郎訳 新潮社)
これまで断片だけを集めた本が、全集以外にはなかった。それはとてももったいないことだと思い、文庫という手にとりやすいかたちでまとめてみたのが、『カフカ断片集』だ。カフカを初めて読む人にも、短編や長編は読んだことがある人にも、新しいカフカの魅力と出合ってもらえたらと願っている。