演技直前の「待ち時間」が異様に恥ずかしい……「大人計画」松尾スズキが明かす撮影現場の微妙な気まずさとは?

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愛と忘却の日々

『愛と忘却の日々』

著者
燃え殻 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784103510154
発売日
2024/09/26
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

「俺は傘立てじゃないよ」

[レビュアー] 松尾スズキ(作家/演出家/俳優)


松尾スズキさん

 長篇小説『ボクたちはみんな大人になれなかった』で鮮烈なデビューを飾り、その後、エッセイ、ドラマの原作と脚本、J-WAVEのパーソナリティなどで活躍する燃え殻のエッセイ集『愛と忘却の日々』(新潮社)が刊行された。

 阿部サダヲ、宮藤官九郎らの所属する「大人計画」を主宰し、作家、演出家、俳優としても活躍する松尾は、燃え殻の文章の「恥のこじらせ具合」にシンパシーを感じていた。

 一度、共通の友人に紹介されて劇場の外で顔を合わせたとき、「わたしよりはるかにこじらせているかもしれない」と思い、燃え殻なら自身の「微妙な恥」などについて、わかってもらえるんじゃないかと期待して綴られた、一風変わった書評を紹介する。

松尾スズキ・評「俺は傘立てじゃないよ」

 燃え殻さんの文章には、シンパシーを感じる。

 なにを恥として生きているか、その感覚が似ているのかな、と、勝手に思っている。

『愛と忘却の日々』の書評を書いてとの依頼なのだが、書評というものをやろうっていう人は、本を膨大に読んでなくてはならないはずだ。わたしが今年になって読んだ本は、これを含めて10冊ぐらい。とても恥ずかしくて「評します」なんて言えない。しかも、わたしはこの本の帯にコメントを書いている。立場上、少しでも売れてもらうに越したことはないので、フェアな評などそもそもできない。だからこの度は書評というより燃え殻さんへの私信のようなものになると思う。燃え殻さんだって、わたしの本を書評してという依頼が来たら、同じような言い訳をして、きっとこういう感じになるのではなかろうか。それはもう、確信めいたものがある。

 さて、恥をどうこういう割には、わたしは何十年も俳優をやっている。人前で演技をする行為、それは、なかなか恥知らずに思えるが、人間が感じる恥の種類にはいろいろある。演技することより、飛行機でCAさん相手にいばり散らかしているおっさんのほうが100倍恥ずかしいと思う。以前、寿司屋で「おしぼり来てねえよ!」と怒鳴っているおっさんを見た。おしぼりごときでマウントをとろうという恥ずかしさ。そんなおっさんらのことを思えば、演技の仕事はそれほど恥ずかしくない。そう無理やり自分に言い聞かせている。

 ただ、舞台の仕事と映像の仕事では、また恥ずかしさの種類が違ってくる。

 舞台では、俳優は楽屋から出て、舞台袖からセットの中に入っていき、そこで出会った別の俳優とセリフを交わす。交わし終われば、舞台から出ていき楽屋に戻る。客前は緊張するが恥ずかしいというものではない。

 映像の場合も、演技をしている瞬間に恥ずかしさはない。しかし、スタジオに入って、カメラ前に立ち、監督が「よーい、スタート!」の声をかけるまでの時間、「さあこれから演技しますよ」という状態で俳優同士向き合っている時間、これがわたしは異様に恥ずかしいのだ。たとえば、恋人同士という設定で向き合って立っている。「じゃあ、はい、スタート!」とはならない。向き合ったまま、照明部が顔に当たる光の微調整を行い、カメラマンがカメラ位置を修正し、メイクさんや衣装さんがお直しに入る。で「はい、スタート!」となればいいのだが、音声部から「外、飛行機来てるんで、30秒待ちまーす!」なんて声がかかる。その間、今日初めて会った女優とずっと「演技直前」の表情で、ただ向き合い続けなければならない。それが気まずい。恥ずかしくてならない。そして、それ以前に撮影スタジオには前室というものがあり、そこに初対面の俳優も、顔なじみの俳優も一緒に集められ、撮影が始まるのを待つのだが、その時間もなかなかに気まずい。現場が押すほどに話すことがなくなってくる。そんなとき、つい余計なことを口走り、その夜、猛省したりする。昔、宝生舞さんと仕事をしたとき「前室さえなければ、わたしは俳優という仕事がまあまあ好きやのに!」と悶絶されていたのだが、その気持は痛いほどわかる。

 しかし、意外と俳優にこの微妙な気まずさや恥ずかしさはほとんどわかってもらえないのである。

 きっと自分がなにかをこじらせているからだろうと思う。

 長々自分の話ばかりしているが、きっと燃え殻さんならわたしのこの微妙な恥についての、人生においてだいぶ余計な敏感さを、わかってもらえるんじゃないかと思って、これを書いているわけである。

 一度、共通の友人に紹介されて燃え殻さんと劇場の外でちょっとだけお会いしたことがある。

 燃え殻さんは話している間中、劇場備え付けの傘立てばかり見つめていた。「俺は傘立てじゃないよ」とつっこみたくなるほどに。文章を読んでその恥のこじらせ具合にシンパシーを覚えたわたしだが、そのときは「わたしよりはるかにこじらせているかもしれない」と思ったものだった。

 それでもその後彼は、著作がNetflixで映画化され、Huluで脚本を書き、J-WAVEでDJをするような売れっ子になった。この本では恥をこじらせながら出世していく男の、心のバランスのくずれ具合がおもしろい。出世したとて寂しさの量が減るわけでもない。そこにエレジーがある。なんだ、俺より友達いっぱいいるじゃないか。と、ちょっと悔しかったりもする。

 燃え殻さん、仕事が一段落したら飲みませんか? わたしも初対面の飲みではカウンターに置かれたシーサーの置物ばかり見つめてしまう感じの人間ではありますが。ぜひ一度。

新潮社 波
2024年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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