『生殖記』
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『生殖記』朝井リョウ著
[レビュアー] 鵜飼哲夫(読売新聞編集委員)
常識破る「ヒト事」思考
人事は本人にとっては大事だが、他人からすれば人事(ひとごと)である。同じように人間界のあれやこれやは他の生き物からしたらヒト事であろう。
この小説の形式上の主人公は、30代で独身の達(たつ)家(や)尚(しょう)成(せい)であり、実際は、ヒトの個体に宿るのは二回目、オス個体は初という尚成の〇〇(ネタバレしないように表現)である。尚成は、今でこそ空気を読む能力にたけ、家電メーカーで表面的にはそつなく働くが、幼少の頃、オス個体から性的にからかわれた心の傷があり、自身の性向を押し殺して生きてきた。もし尚成が語り手だったら小説は重苦しくなっただろう。彼は、自分を苦しめるものを視界から排除する「必殺脳内トリミング」の技術にたけ、社会人ごっこに成功しているものの、〈悩みを誰にも共有できない〉生き方ほどつらいものはないからだ。
しかし、語り手となる〇〇は、ヒト以外の種に宿った経験が豊富だから、人の深刻な悩みもどこかヒト事。宿主・尚成の行動には「え、ウソでしょ」、「おったまげ~!」と距離を置く。それはそうだろう。これまで宿ったヒト以外の種は生き抜くことに必死。滅多なことで命を脅かされずに生きられるヒトの悩みなんて〇〇からは「暇そう」とすら見えてしまうのだ。
こうしてヒト事を相対的に見る〇〇の伸びやかな語りを通して、尚成のような個体は、ヒト界ではマイナーでも、生き物全体から見れば特殊ではなく、むしろ尚成を特殊とみる世間の奇妙さが示されていく。そして、必要最低限の業務だけを淡々とこなす、尚成のような現代人の生まれる背景にも迫っていく。
それにしても〇〇はなぜ、語り始めたのか。答えは書かれていない。文明開化における社会の激変で漱石の『猫』が語り始めたように、いつまでも拡大、発展、成長の原理を追い求める人類のせいで生き物全体の多様性が減り、生息に危機を感じた〇〇が大演説を始めたのではないか!? 常識を破る思考を促す小説である。(小学館、1870円)