『妖怪を名づける』
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『妖怪を名づける 鬼魅の名は』香川雅信著
[レビュアー] 宮部みゆき(作家)
怪異を取り込み文化に
遠い昔、恐ろしい大型の獣にただただ怯(おび)えながら生きていた人類は、その獣に「ライオン」という名前をつけたとき、初めてそれと対(たい)峙(じ)することができるようになった。名づけという行為には、それくらい大きな意味がある。
本書がテーマとしているのは野生動物ではなく、もっと実体のない怪異、魑(ち)魅(み)魍(もう)魎(りょう)、妖怪、あやかしと呼ばれるものたちだ。ただし、ほとんど怖くない(なにしろ副題が「君の名は。」にかけた駄(だ)洒(じゃ)落(れ)になっています)。十七世紀、私たちがざっくり江戸時代と認識する世の中になると、それまでは数も種類も限られていた妖怪たちが、にわかに増殖してバラエティに富んでくる。著者はこれを妖怪の「カンブリア爆発」と呼んでいる。古生物学のカンブリア爆発には、その発見のもととなった多数のユニークな化石があった。では妖怪のカンブリア爆発を裏づけるものには何があるのか。
それは十七世紀後半から十八世紀前半にかけて数多く刊行された怪談本と、それを題材として江戸の趣味人たちのあいだで流行(はや)った俳諧である。人びとが一座に集って興じる「座の文芸」としての俳諧(連句)は、名もないものに名をつけ、それを広めてゆくことができる情報構築伝達システムでもあったのだという。その働きはまさに江戸のSNSだ。
中世まで、怪異はしばしばストレートに生者を脅かす存在だった。ないがしろにすれば恐ろしい災厄が引き起こされる――という基本的な考え方は、江戸時代に入ってから変化してゆく。慶長年間に起きた春日神社の暴風雨による倒壊を、徳川家康がどのように受け止めたか。随筆『甲(かっ)子(し)夜(や)話(わ)』のエピソードが、その鮮やかな転換点を教えてくれる。命にかかわる脅威から、不可思議で時に興味深い出来事、謎の現象へと変わりゆく怪異は、それにふさわしい名づけを得て日常に近づき、集成や創造を招き入れながら時代を経てゆく一つの文化になったのだ。(吉川弘文館、1980円)