『謎とき百人一首』
- 著者
- ピーター・J・マクミラン [著]
- 出版社
- 新潮社
- ジャンル
- 文学/日本文学詩歌
- ISBN
- 9784106039188
- 発売日
- 2024/10/24
- 価格
- 1,980円(税込)
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自分たちを知るための大切な「気づき」
[レビュアー] 茂木健一郎(脳科学者)
アイルランド国立大学を首席で卒業した詩人で、『百人一首』の英訳で日米の翻訳賞を受賞したピーター・J・マクミランさんが、この度『謎とき百人一首:和歌から見える日本文化のふしぎ』(新潮選書)を刊行。同書の魅力を脳科学者の茂木健一郎さんが語り尽くす。
茂木健一郎・評 自分たちを知るための大切な「気づき」
日本人ならば誰でも教科書やかるたを通して慣れ親しんでいる『百人一首』。アイルランド出身で、大学で教えるために日本に来てそのまま三十年以上住み、教師、翻訳家、詩人としてメディアの中でも活躍されているピーター・J・マクミランさんによる『謎とき百人一首』は、和歌、そして日本文化の語り尽くせぬ奥行きを論じた名著である。
『百人一首』の翻訳で、ドナルド・キーン日本文化センター日本文学翻訳特別賞を受け、日本文化の紹介者として国際的に評価されているマクミランさん。私は個人的にも存じ上げているが、その温厚なお人柄から発せられる日本への愛はほんものだ。ホメロスやイェイツ、ジョイス、ベケットなどに縦横無尽に言及しつつ和歌を論じる本書は、「世界文学」の中の和歌、そして日本の文化のありようを、時代の変化に動揺しがちな私たちの胸のど真ん中に届けてくれる。
『百人一首』には、「恋」を通して人生を味わう歌が多い。平兼盛の歌「しのぶれど色に出(い)でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで」や、小野小町の「花の色はうつりにけりないたづらに 我が身よにふるながめせしまに」といった名歌をマクミランさんがどのように受け止めたか。私たち日本人が「言の葉」に託した「もののあはれ」が世界に広がっていく感覚は、感動的だ。
右にも述べたようにすでに定評ある『百人一首』の英訳は、本書の読みどころの一つである。ドナルド・キーンさんに訳文を見せて感想をもらうなどの交流があったマクミランさんは、見事な翻訳で『源氏物語』を世界に知らしめたアーサー・ウェイリー以来の受容史の中にある。
マクミランさんの英訳には、知性と愛がある。日本語における同音異義語を、どのように反映させるか。猿丸大夫の歌「奥山に紅葉(もみぢ)踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋はかなしき」に見られるような、主語の曖昧さの持つ可能性をどう扱うか。シリアスな本質論を論じる一方で、柿本人麻呂の歌「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜をひとりかも寝ん」の英訳では、単語を縦長に並べることで、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のような軽やかな遊びの精神にも到達する。
もっとも、翻訳には困難が伴う。権中納言敦忠の歌「あひみての後の心にくらぶれば 昔は物を思はざりけり」の英訳はすばらしい。しかし、日本語の持つニュアンス、響きがどんなに卓越した英訳でも伝わりきらないことはマクミランさんご自身も繰り返し強調する。
深い理解に基づく、工夫をこらした英訳ですら、もとの和歌の興趣は時に伝わりにくい。そのような和歌を敢えて英語に直そうというマクミランさんの試みは、ドン・キホーテのように美しく、真に創造的な行為であり、読んでいて深い感動があった。同時に、卓越した英訳をいわば「鏡」として、かえって、和歌は第一義的には日本語で味わうべき芸術であると読者に気づかせる点に、一つの「発見」があると思う。
本書は、いろいろな意味で忘れがたい読後感があるが、特に、マクミランさんの日本文化における「月」の持つ意味についての論は考えさせられた。「外国人は日本国旗『日の丸』を見て、日本は太陽の国と思いがちである。極東の日本は、アジアで初めに太陽が出てくる国でもある。ただ、日本文学の翻訳をしてきた私にとって、日本はむしろ月の国であるように感じる」という卓見は、長年古典文学に向き合ってきた著者ならではであろう。
確かに、日本人は月が大好きである。とりわけ、古典文学においては月が中心的な位置を占めている。そのことは日本人にとっては常識だが、世界的に見ればユニークな感性であることに、私はマクミランさんを通して改めて気付かされたように思う。
遣唐使とともに渡った唐に長年滞在して三代の皇帝につかえ、ついには帰郷がかなわなかった阿倍仲麻呂による歌「天の原ふりさけ見れば春日(かすが)なる 三笠の山にいでし月かも」を題材に、月に対する日本人の感性を文学的伝統の中で論じた項は、本書の白眉である。
人工知能やグローバル化といった流れの中、私たちは今、自分たちの居場所を見直すべき時を迎えている。世界をいわば「鏡」として、日本文化を再発見しなければならない。そんな時代に、マクミランさんの本書は大切な「気づき」の数々を与えてくれる。
和歌におけるジェンダーの問題など、本書で論じられた論点がこれからどのように発展して行くのか、ほんとうに楽しみだ。万葉集の英訳などにも取り組み続けるマクミランさんは、ウェイリーやキーンといった先人たちがたどった道を、さらにどこまで遠くに行くのだろうか?