『私の馬』
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言葉に疲れたロマンチストな私たちを試す小説
[レビュアー] 背筋(小説家)
夏目漱石は「I love you」という台詞を、「月が綺麗ですね」と訳した。俗説だが、言葉がもつ奥深さを表す話だ。
言葉を交わすことは人間だけに与えられた特権だ。だがときには、いや、日常生活のかなりの場面において、私たちはそれに疲れてもいる。
この物語の主人公である優子は作中でほとんど言葉を発しない。彼女もまた言葉に疲れた人間のひとりだからだ。繰り返される本音と建前の応酬、SNSに溢れる虚実入り混じる投稿、想いを伝えるという本質が失われてしまった複雑な言葉たちに。
そんな彼女がひょんなきっかけで出会うのが本書のタイトルにもなっている「馬」だ。ある日の通勤途中、馬場へ運送中の馬――後に「ストラーダ」と名付ける彼と目が合い、その無垢な瞳に心を奪われる。
優子は寂れた乗馬クラブに通い詰め、彼を立派な競技馬へと仕立て上げながら愛を深めていく。彼の所有権を購入し、馬具を買い揃え、設備投資を行って。職場の同僚とは言葉を交わさず、いつも曖昧な笑みで対話を拒絶する彼女だが、彼の前ではどこまでも真摯だ。そこに一切の言葉はなくても。そして、彼へ投じる資金が労働組合の金庫から盗んだものであっても。
優子の抱く孤独感と、それゆえに募る彼への愛が、巧みな情景描写と透明感のある筆致で描かれる。それを読んだ私たちは思うのだ。これは純愛なのだと。薄ら寒い陶酔感から目を逸らしながら。
言葉がそうであるように、愛もまた、目に見えない。だがそれを愚直に信じ、優子は突き進む。横領額が一億を超えてもひたむきに愛し続け、生活の全てを捧げる様子からは純粋さと同じくらいに痛ましさも感じる。
優子の狂おしいまでの純粋さとは対照的に、周りの人間たちはどこまでも現実的だ。
皆、どこか諦めながら言葉を操り、諦めながらなにかを愛している。だからこそ、優子の純粋さが一層際立ち、滑稽にすら感じてしまう。
漱石の話を知っている私たちは、隣を歩く人が「月が綺麗ですね」という言葉を言ったとき、愛の告白だと捉えて喜ぶだろう。だが、仮にその言葉の意味するところが、ただの感想だったとしたら、責められるべきは、深読みをした自分か、無垢な台詞を放った相手か。いずれにしても、滑稽な悲劇だ。
ロマンチストな私たちが優子の疾走の終着点を目にして、どのような感情をもつのか。試されることになるだろう。