「赤毛」「銀毛」と呼ばれ恐れられた巨熊など…戦前の北海道で繰り広げられた人間とヒグマの死闘を伝える伝説の名著『羆吼ゆる山』
[レビュアー] 河﨑秋子(作家)
長きにわたって絶版、入手困難な状況が続いていた伝説の名著『羆吼ゆる山』(今野保:著)がヤマケイ文庫にて復刊した。
「赤毛」「銀毛」と呼ばれ恐れられた巨熊、熊撃ち名人と刺し違えて命を奪った手負い熊、アイヌ伝説の老猟師と心通わせた「金毛」、夜な夜な馬の亡き骸を喰いにくる大きな牡熊など、戦前の日高山脈で実際にあった人間と熊の命がけの闘いを描いた傑作ノンフィクションである。
本作を「ヒグマの息づかいが聞こえる」と推薦するのが、猟師を題材にした小説『ともぐい』で直木賞を受賞した河崎秋子氏だ。
北海道在住でヒグマとの距離感を知る河崎さんが語った本作の魅力とは?
川底の小さな破片
今では身近になった航空写真のアプリなどで北海道を見ると、市街地、耕作地、山林とそれぞれの境界がはっきりと分かる。
山林の箇所は濃い緑で覆われ、「ああ、原生林がそのまま残っているのだな」と思ってしまうが、場所によってはかつて木が伐採された場所であったりする。
私事だが、子どもの頃、牛の放牧地の周りに広がる森林をよく探索していた。そこを流れる小川に手を浸していた時、川底に小さな陶片を見つけたことがある。
ごく小さな、幼児の親指ほどのそれは、白地に青い染付がされた、ごく普通の割れた陶器のかけらだった。幼かった私は、人が住んでいる気配などない林の中でそんなものを見つけたことにとても興奮し、まるで人類の大発見をしたような気持ちで母に報告した。
「ああ、それはたぶん、昔このへんに住んでた炭焼きの人が使ってたものだよ」
知られざる大発見などではなく、真相はあっけないものだった。私は母の言葉に少しがっかりし、大事に持っていた陶片を家の周りの砂利に置いたことを覚えている。
炭焼き。地元の歴史を辿れる程度に大人になってから理解できたことだが、私の地元のみならず、明治期以降から戦後にかけて、多くの人が北海道各地の山林に分け入り、個人で、あるいは会社組織として木を切り倒して製炭業をしていた。当然、めぼしい木がなくなれば次に育つまで待ってなどいられないから、居を移してまた木炭作りに精を出す。私が拾った陶片は、そうしてかつて一時的に住んでいた炭焼きの人が使っていた食器の一部だったのだろう。
両親をはじめ、地元の高齢者の話によると、やはり私が陶片を見つけた場所を含め、地域の山林のほとんどは一度は炭焼きによってほぼなくなったのだそうだ。
木の種類など分からない子どもにすれば鬱蒼とした深い森に見えていたものだが、実際にはその周辺一帯は伐採されてから計画的な植林もされずに再び木が茂った二次林だった。そう知ってから森林の状態を観察すると、下草としてササ類が密集し、間伐などによって木の密度を調整された様子はない。伐採後、いっせいに新たな木が栄養を奪い合ったため、細めのナラの木ばかりがひしめきあい、なかなか太い状態まで育たない様相で、まさに分かりやすい二次林であった。
驚異的な記憶力と観察眼
本書『羆吼ゆる山』の著者、今野保氏は、まさにその製炭業全盛期を生きた人物だ。父親が苫小牧の製炭業者に管理者として能力を買われた関係で、中湧別、足寄、日高と一家で居を変えながら大木生い茂る北海道の山地で青少年期を過ごした。まさに場所を変えて時代の動きを見据え続けた人物である。
木炭に適した木が生えるような場所は、そのぶん野生動物との距離も近い。というより、野生の領域に人間が踏み込む状態である。今野氏の父親は猟銃を所持し、ヤマドリなどを撃って肉を得るのみならず、人里に姿を見せる熊を警戒しなければ仕事と生活は成り立たない。そんな暮らし方のなか、保少年も当然銃を手に取ることを考え、父親の猟銃をこっそり持ちだして鳥を撃ち始めたとのことだ。それが父親に露呈した時、銃弾の選択を一瞬咎められはしたものの、次はこうするようにと弾の使い分けの指導をされたくだりに、当時の雰囲気と寛容さが感じられる。(現在の法律ではもちろん許されないエピソードだが、おそらく息子がいつのまにか猟銃を使いこなしていたことに父親は誇らしい思いを抱いていたのではないか、ともとれて微笑ましくさえある)
そうして猟銃の扱いに習熟していく保少年が、山林で熊や他の獲物を追い、地域の住民たちと過ごす日々が、本書では驚異的な記憶力をもとに詳細に綴られている。
ことに特筆すべきは、獲物を求めて山中に入った際、生えている木に対する観察眼が鋭いことだ。木の種類は勿論のこと、生育状況、弱ってはいないか、他の蔓性植物が絡んでいるか、など、木の描写にかなりの紙幅が割かれている。おそらくは製炭業で身につけた樹種に対する知識と、炭に向く状態を瞬時に見分ける観察眼が、山に分け入る際の情報を豊かにしているのであろう。
また、獲物を発見した際の位置関係や地形、そして支流含めた渓流の場所までをも冒頭の地図に詳細に残せていることは、さすが山を知り尽くした業種ゆえの記憶力に拠るものと思われる。
人間の注意力というものは、あらかじめ受け皿を広げておかねば対象を認識することさえ敵わないことがある。極端な例としては、文明から遠ざかった密林で生活していた民族が、『飛行機』という存在を知らなかった故に、近隣に飛行機が堕ちても気づくことがなかった事例があるという。そこまではいかずとも、知識が狭く思い込みが強い人間が豊かな山に踏み入ったとしても、その豊かさや、時には危険すら知覚できずに過ごすことになる。本書は今野氏がかつての記憶を掘り起こしながら綴った手記がもとになっているというが、その記録の鮮やかさに、いかに青少年期に周囲への関心と観察を怠らなかったかということが伺える。
当時ならではの状況として、宵の闇に紛れて息を潜め、それこそ物音ひとつ立てずにヒグマが姿を見せるのを待つ描写は緊張感に溢れる。現在では発砲が許可されるのは太陽が出ている間、つまり日の出から日没までと厳しく定められている。しかも所持に関する規制も厳しいため、ヒグマが出たからと身内や親戚に気軽に銃を貸し出すということもできようはずがない。その意味においても、当時のヒグマとの距離、付き合い方を存分に感じさせられる、貴重な記録ともいえる。
ヒグマの息づかいを聞くだろう
さて、保少年が経験した狩猟についてのみならず、本書第三章では彼と親交のあったアイヌの猟師たちの経験談が綴られている。
アイヌの人々はもともと鉄砲ではなく毒矢で狩猟をしていたことが詳しく説明され、彼らが時代の流れで鉄砲を手にし、手段は変わっても変わらぬ観察眼と注意深さ、そして山への敬意をもってヒグマを仕留める様子が活写されている。
なかでも、村田銃を手にひとり山に入る桐本仙造と金毛と呼ばれるヒグマの話が印象的だ。人と獣という間柄でありながらつかず離れず、まさに距離をおいた隣人という関係を築いていた一人と一頭の物語は、その結末も含めて切ない印象が残るエピソードだ。
不思議なのは、桐本氏がこの話を当時十六歳の保少年に初対面で語ったことだ。
昼飯を共にしながら、彼にとっては後悔さえ残る経験を山の中で偶然出会った少年猟師へと語る。ともすれば猟歴や成果について自慢話が多くなりがちな猟師という立場で、まるで懺悔のように口にされた昔語り。桐本氏の複雑な心のありようと、それを受け止めた保少年の間に、猟師同士でしか通じえないものがあったのだろう。
ヒトとヒグマ、ヒトと野生、そしてヒトとヒト。いっけん濃い緑一色に見える北海道の山林の中には、生き物の複雑なモザイクが息づいている。
ところで、冒頭で綴った、私が陶片を拾った二次林は、実は国有林なのだそうだ。数年前、行政によって再び伐採され、計画的植林がなされて帰省するたびに幼木が立派に育っていっている。
本書のあとがきで今野氏は移り変わってしまった自然の姿とかつての生活を留めおくために筆を執った旨を記していた。変わってしまったものは簡単に元には戻らない。しかし雄弁なる筆致で残されたかつての風景に、今の読者も、そして未来この本を手にとる人も、静かに心打たれ、製炭に関わった人達の熱気を知り、ヒグマの息づかいを聞くだろう。北海道の歴史において、苔むしてもなお厳然と立ち続ける道路元標のような一冊である。