『専制国家史論』
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【書方箋 この本、効キマス】専制国家史論 足立 啓二 著
[レビュアー] 濱口桂一郎(JIL-PT労働政策研究所長)
今こそ読み返すべき一冊
習近平政権の専制的傾向がますます強まり、中国の民主化の希望が遠のくにつれ、この専制的性質が中国という国家にとって本質的なものなのではないかという問題意識が世界的に高まってきている。中国史の専門家がこの課題に挑戦し、壮大な世界史像を練り上げたのが本書だ。ただし原著は鄧小平の死後間もない1998年刊行であり、その頃はまだ改革開放政策の真っ最中であった。文庫本化されたのが2018年であり、習近平が国家主席の任期制限を撤廃して終身独裁への道を開いた年である。それから7年経ち、今や明清朝の皇帝独裁にも比すべきワンマン体制は完成しつつあるように見える。そういう時期であるからこそ、本書は改めて読み返されるべきであろう。
人類の歴史は狩猟採集のバンド社会から始まり、農耕化とともにやがて首長制に発展するが、しかしその後大きく分岐する。マルクス主義を始めとする単系発展理論では古代→中世封建社会→近代資本主義社会を人類普遍の法則視するが、それに真正面から反する実例が、建前上政府がマルクス主義を奉じていることになっている中国の歴史なのだ。なぜなら、日本やヨーロッパで近代社会の諸要素を育み生み出した中世の分権的封建社会という段階が存在しないからだ。殷周春秋期の首長制から古代専制国家を作り出した中国は、一度も封建制を経験することなく今日に至っている。そして、封建制を経験した日欧のような分権的資本主義ではなく、専制体制下の高度資本主義を実現しつつあるのだ。
著者の中国認識のベースになっているのは、戦前に中国社会の実態を詳しく観察した諸研究である。それによると、イエやムラといった共同体が実体的な社会的存在である日本と異なり、中国社会には共同体が存在しないという。まずその境界がはっきりしない。共同事務もほとんどなく、紛争処理も自律的でない。公共的な事業は、有力者の慈善行為として行われる。自律的なムラを支配する自律的な封建領主ではなく、バラバラの個人を中央から派遣された科挙官僚が支配する体制だ。そういう社会だからこそ、西欧流の代表制的な政治体制は全く根付かず、国民党も共産党も党=国家体制を構築するしかなかったのだ、と著者は説く。
こうした議論は、中国が経済成長を始める前であれば、オリエンタリズム的なアジア的停滞論だの宿命論だのと批判されたであろう。実際、ウィットフォーゲルの有名な『東洋専制主義』もそういう文脈で読まれたと思われる。しかしながら、今や日本の4.5倍のGDPを誇り、アメリカに迫りつつある中国の経済力を前にしては、むしろ逆の文脈すら有力である。与那覇潤の『中国化する日本』に見られるように、専制中国こそ世界の進化の主流であり、歴史の必然であって、「江戸」化した日本はむしろ進化の袋小路だという考え方が強まっている。
しかし著者はそれに抗おうとする。彼は「社会を越えて自己運動を始めた資本を、再度社会の管理の中に埋め込むことが必要である。もしもそれが可能であるとするならば、現在までのところ、それをなしうるもっとも強い力は発達した共同体的規範能力を除いてはない」と述べて、本書を閉じるのである。
(足立 啓二 著、ちくま学芸文庫 刊、税込1320円)
選者:JIL―PT労働政策研究所長 濱口 桂一郎