『もういいか』山田稔著

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こないだ

『こないだ』

著者
山田稔 [著]
出版社
編集工房ノア
ISBN
9784892712920
発売日
2018/06/01
価格
2,200円(税込)

『もういいか』山田稔著

[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)

回想の文章に一条の光

 亡くなった坪内祐三さんから、あなたは山田稔さんみたいになるといいね、と言われたことがある。なるといいね、だったか、なってほしい、だったか細部は忘れた。いずれにせよ酒の席での会話である。長く大学に勤め、同じような生活を続けながら文章を発表する人。それ以上のことを考えておられたかどうか。

 山田稔の文章や、フランス文学翻訳の仕事について話をしていたわけではなく、まったく関係ない場面でそんな言葉が出た。本書は九十四歳になったこの著者がまとめた、最新の文集である。「はじめに」には「私の少数の、熱心な読者諸氏」という言い回しがあるが、当方もその「諸氏」に属していると何となくわかっていたから、自然にそんな会話になったのだろう。

 この坪内さんも含めて、すでに物故した人にまつわる回想の文章が多くを占めている。面影を鮮やかに伝えながら、口調はときに苦い。たとえば異端のフランス文学者として知られたかつての同僚、生田耕作についての思い出。仰ぎみる先輩、「文学中年」としての活発なふるまいを懐かしみつつも、生田が辞職に追い込まれたいきさつをめぐる心の痛みや、その当人がのちに「名誉教授」の肩書を受け入れ、名刺に印字したことに対する違和感を隠さない。

 その人の姿を思い出しながら、あるいは著書や手紙を見返しながら、言葉が言葉を引き寄せるようにして回想を綴(つづ)っている。詩人・作家の耕治人の「一条の光」という短篇(たんぺん)小説にまつわる話もあり、その言い回しを借りるなら、どの文章にも「一条の光」がさしこんで、ともすれば曖昧になったり、迷いが生じたりする記憶の語りに、くっきりした色どりを加えている。

 題名の「もういいか」は、老境に入って病を得た小沢信男の手紙から、述懐の文句を引いたもの。著者も洒脱(しゃだつ)な言葉でこれに応じているが、「諸氏」の一人として言えば、まだまだいいのである。(編集工房ノア、2530円)

読売新聞
2024年11月15日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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