『批評回帰宣言』
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<書評>『批評回帰宣言 安吾と漱石、そして江藤淳』先崎彰容(あきなか) 著
[レビュアー] 風元正(文芸評論家)
◆しなやかな僕の個性
「批評」とは何か? 英語圏ならば「評論」もcriticismだから明快である。しかしわが国では、正宗白鳥、小林秀雄に連なる「文壇」指導者が批評家と呼ばれるゆえ、特殊な意味を帯びる。とはいえ、元祖は「批評とは竟(つい)に己れの夢を懐疑的に語ることではないのか」と口走るのだから“エビデンス”万能の今は流行(はや)りそうにない。
それでも「批評回帰」に懸ける先崎は、山上徹也の銃声を聴きつつ、「近代システム」の中で人間が「虚無」と「閉塞(へいそく)」に向かう条件を総ざらえし、「思想家」を《日常的な生活感覚がとらえる違和感を「沈黙の意味性」ということばで定義し、閉ざされた空間に「裂け目」が生まれる場所》を了解する者とする吉本隆明への親近感を表わす。そして自らは《求められているのは繊細でしかも躍動する言葉である。「虚無」に巻き込まれず、「水晶宮」(『地下室の手記』)のユートピアにも溺れない、しなやかな僕の個性が必要なのだ》と鮮烈に言挙げする。
先崎彰容が批評家に転じたのは江藤淳の文章に接した瞬間である。東浩紀『存在論的、郵便的』が登場した頃、「国学の和歌をめぐる学問に魅せられた」《時代遅れの「硬派」な大学院新入生は「昼なお暗い大学図書館の片隅で『成熟と喪失』に触れ」》て、「斬ればどくどくと鮮血が流れそうな文体は異様であり、読み進めることは困難」だが、だから「瑞々(みずみず)しく蠱惑的(こわくてき)」と感じる。「わが家のように、失業をくり返し、毎晩母を罵倒し蹴り飛ばす父をもつがゆえに、常に一家の精神的支柱であろうとする僕は、文学には不向きなのだろうか」と逡巡(しゅんじゅん)してきた先崎は、「近代を問いつづけた」江藤の仕事に「常に還(かえ)るべき場所」を見出した。
『成熟と喪失』を起点とする精神の覚醒を現在に刻印し続ける営為。近著『本居宣長「もののあはれ」と「日本」の発見』では、宣長の「色欲」への着目により批評を実践し得た。先崎にとり、文章に「鮮血」を流す時間はまだたっぷりと残されている。
(ミネルヴァ書房・3080円)
1975年生まれ。日本大教授。著書『ナショナリズムの復権』など。
◆もう1冊
『本居宣長 「もののあはれ」と「日本」の発見』先崎彰容著(新潮選書)