『一場の夢と消え』
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『一場の夢と消え』松井今朝子著
[レビュアー] 長田育恵(劇作家・脚本家)
近松の生涯 圧巻の物語
生涯でおよそ一五〇作もの作品を手がけたとされる日本が誇る大劇作家、近松門左衛門。その生涯を物語として書き顕(あらわ)せるのは作者をおいて他にいない。本作には、近松の浄瑠璃や歌舞伎など舞台の魅力、江戸中期の芝居町や幕内の息遣い、坂田藤十郎や竹本義太夫など当代きっての名演がまざまざと描写される愉悦がある。もちろん近松の素顔、杉森信盛その人の男としての憧憬(どうけい)、父親としての苦悩も墨痕鮮やかだ。
語り出しは近江の近松(ごんしょう)寺で書庫番として和漢の古典に親しんだ日々の終わり。正(おお)親(ぎ)町(まち)公通(きんみち)の誘いで上京し、文才を頼りに芝居町に足を踏み入れる。当時は浄瑠璃正本に作者の署名もされず、歌舞伎芝居でも役者をせずに作者になった者はいない時代。信盛は近松門左衛門とやけに門が多い芸名で、先駆けの門を次々押し開く。
日本の詩劇において画期的な場の描写にも胸高鳴る。俳諧同様の五七調や七五調の詞章を打ち破る台詞(せりふ)を書き、難色を示す義太夫を説き伏せた。人に耳を傾けさせ、胸にざらりと引っかかる「語り」を生み出したのだ。心模様を書く筆は世間を賑(にぎ)わせた心中事件を得て飛躍する。
『曽根崎心中』『心中天網島』『女殺油地獄』など綺羅(きら)星(ぼし)の演目が誕生していく様が虚実のはざまから力強く立ち上がる。信盛は義太夫亡きあと後継の重荷に苦しむ政太夫に語る。「自らを限るまいぞ。よいか、人は自分で自分を見限ってはならんのじゃ」――そうして心に痕を残す信盛の台詞と政太夫の命を削る語りが相まり『国性爺合戦』は空前の大当たりとなるのだ。
一方、心中を書く信盛に織田家の侍医を務める弟は苦言を呈す。道に迷う次男も大変な不祥事を仕出かす。人生の苦みは信盛を大作家と驕(おご)らせず、どこまでも世間に繋(つな)ぎ止めたのだろう、弱さを孕(はら)み、明日を希求する老境も心に残る。
また終盤は震災や大火災後の世が描かれ、ぞくりとする。まるで近松の「往古の物語に今の世を書き込む」筆致のように。圧巻の一作。(文芸春秋、2420円)