『黄昏の光 吉田健一論』
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『黄昏の光 吉田健一論』松浦寿輝著
[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)
豊かな文章 鈍い黒光り
この本を手に取られた方はぜひ、帯のように背の低いカヴァーをはずして、本体の表紙・背・背表紙の装丁をながめてほしい。水戸部功のデザインによるものであるが、上の半分は濃紺で、下の方には題名どおり黄昏(たそがれ)のとき、日没寸前の空を思わせるように、ややくすんだ赤色が広がっている。
著者、松浦寿輝が長年にわたって愛読し、日本近代文学史における「特異な存在」と呼ぶ吉田健一をめぐって発表した文章と対談を集めた一冊である。初出が一番早いものは一九八七年の解説、最近のものは二〇二三年の講演。二つのどちらにも「黄昏の光」という言葉が顔をのぞかせている。
昼間の多忙が終わり、日が沈むのを感じながらゆっくりと時が流れてゆくのを味わう静かな充実感。それは、人生における「余生」のときとも、繁栄が過ぎ去った時代の空気とも通じるものである。八七年の解説では、吉田が十九世紀末のヨーロッパにふれた著書をめぐって、その「黄昏の光」の「艶(つや)と輝き」を論じていた。
吉田の作品に流れているそうした余裕と愉悦についての言及は、松浦の後年の文章にも見られるが、二〇二三年の講演「光の変容」で指摘するのは、吉田の文章に時に現れてくる、死の印象につながるような鈍い黒光り、さらには夜の闇の存在にほかならない。こうした視線の変化は、吉田の文学世界の深まりを説明するとともに、解釈する松浦自身の感覚の円熟を示すものでもあるだろう。
まさしく夕暮れの時刻に大学で吉田の研究室を訪ねたら、おそろしく陰鬱(いんうつ)な顔をしているのに息をのんだが、当人は同僚が入ってきたことに気づくと、たちまちふだんの笑顔に戻った。松浦も言及する大沢正佳の証言(『ユリイカ』一九七七年十二月号)である。豊かな言葉の魅力を改めて味わうとともに、その暗い表情を目のあたりにしたような読後感が残った。(草思社、2860円)