「あ、もう硬直をしはじめた」、「もうだめ、さっきとはちがう」生命力を取り戻した妻と鬱に沈む夫の日記

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

日の移ろい

『日の移ろい』

著者
島尾敏雄 [著]
出版社
中央公論新社
ISBN
9784122016668
発売日
1989/12/10
価格
640円(税込)

あ、もう硬直をしはじめた、ほらこんなに硬くなった、もうだめ、さっきとはちがう

[レビュアー] 梯久美子(ノンフィクション作家)


ふつうの日記だけでなく夢日記や情事の日記も書いた島尾敏雄

 書評子4人がテーマに沿った名著を紹介

 今回のテーマは「日記」です

 ***

 作家の島尾敏雄は“日記魔”とでもいうべき人だった。通常の日記のほかに夢日記や愛人との情事の日記など複数の日記を書き、没後には小学生時代から死の直前までの膨大な日記が残された。

 日記をもとに小説を書くことを学生時代から行っていて、私小説の極北と呼ばれた代表作『死の棘』にも、日記と同一の記述が数多くある。

 谷崎潤一郎賞を受けた『日の移ろい』は日付のある小説で、55歳の一年間が綴られている。当時の島尾は妻ミホの故郷、奄美大島で暮らしていた。かつて島尾の浮気によって精神を病んだミホは回復しつつあったが、島尾は執拗な鬱にとりつかれている。

 冒頭近くに飼い始めたばかりの小鳥が死ぬ場面がある。仮死状態の小鳥をミホが掌に包んであたためると一度は息を吹き返すが、結局は息絶える。ミホはその死体を見せようとするが、島尾は正視できない。

 するとミホは両手で小鳥の羽を広げて吊り下げ、鷲の徽章のようなかたちにして島尾に向かって掲げてみせる。

〈あ、もう硬直をしはじめた、ほらこんなに硬くなった、もうだめ、さっきとはちがう〉

 人と人ならざるもの、生者と死者の境界をやすやすと越えるミホを、島尾は畏れつつまぶしい思いで見ている。

 故郷の風土の中で生命力を取り戻したミホと、鬱に沈む島尾が対比をなし、鮮やかな印象を残す。

新潮社 週刊新潮
2024年12月19日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク