『われわれが見るもの、われわれを見つめるもの』ジョルジュ・ディディ=ユベルマン著

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われわれが見るもの、われわれを見つめるもの

『われわれが見るもの、われわれを見つめるもの』

著者
ジョルジュ・ディディ=ユベルマン [著]
出版社
水声社
ジャンル
芸術・生活/芸術総記
ISBN
9784801007192
発売日
2024/09/27
価格
4,950円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『われわれが見るもの、われわれを見つめるもの』ジョルジュ・ディディ=ユベルマン著

[レビュアー] 郷原佳以(仏文学者・東京大教授)

視覚分裂 脅かされる主体

 ふと人形の視線を感じて目が離せなくなってしまったことはないだろうか。あるいは、眼(め)は付いていないはずなのに、物に見つめられていると感じることが。

 “I see”が「わかる」を意味するように、見ることは距離を取って対象を把握する行為である。しかし、何かが見るべく誘ってきて、見ることが避けがたくなるとき、私たちは脅かされる。自分の何かが喪(うしな)われるように感じるからだ。そのとき私たちはもはや対象を「見ている」のではなく、「見つめられている」。

 フランス語では、「見つめる」という動詞に「関わる」という意味もある。その二重性を利用して、本書の著者は、「私が見る」と「それが私を見つめる」への視覚の分裂を追究する。自分が対象と真に「関わる」のは、それを「私が見る」ときではなく、「それが私を見つめる」ときなのだ。では、そのような事態はいかにして起こるのか。

 「それが私を見つめる」ような物のあり方を、かつてドイツの批評家ヴァルター・ベンヤミンは「アウラ(オーラ)」と呼び、そこに「礼拝的」、すなわち宗教的性格を見(み)出(いだ)した。しかし、「私を見つめる」物は必ずしも信仰の対象とは限らない。たとえば、色も形もきわめてシンプルなミニマル・アートの彫刻を前にして、「それが私を見つめる」と感じることがある。とりわけ著者が着目するのは、ミニマリズムの美術家トニー・スミスの作品「Die」だ。一辺の長さが六フィート(約180cm)の黒い立方体を前にして、「われわれにとっての見ることは不安にさせられる」。なぜか。

 本書の全体がその理由の探究に捧(ささ)げられているのだが、単純化して言えば、箱のような形、黒色とサイズによる不明瞭さ、死とサイコロを暗示するその名称、等から、その物体が観者に、ある律動を引き起こすからである。それは、愛着のある物をあえて自分から遠ざけ、苦痛を味わった上で自分に近づける動きを繰り返す子供の遊戯のような律動だ。芸術作品と真に「関わる」とはそのような只(ただ)ならぬ経験なのだと、本書は告げている。松浦寿夫・桑田光平・鈴木亘・陶山大一郎訳。(水声社、4950円)

読売新聞
2024年12月20日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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