『ドヴォルザークに染まるころ』
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『ドヴォルザークに染まるころ』刊行記念特別ロングインタビュー
[文] 光文社
これから先の人生できっと何度も振り返ることになる、特別な一日の物語
これから先の人生できっと何度も振り返ることになる、特別な一日の物語
本屋大賞作家・町田そのこが、最新作『ドヴォルザークに染まるころ』を発表した。全五話の物語の舞台は、九州北部の小さな田舎町・かなた町。廃校が決まった小学校で行われる最後の秋祭りに集う人々の心情と半生を、一話ごとに主人公が変わる、多視点群像形式で描き出す。これまでの作品では書いてこなかった感情や言葉が無数に記録されることとなった理由を、著者にたっぷり語っていただいた。
聞き手/吉田大助
「第1話 ドヴォルザークの檻より」を読み始めてすぐに感じたのは、不穏さです。物語の舞台は、九州北部にある田舎町・かなた町。一児の母親である主人公の類(るい)が、年度内での廃校が決まった小学校で行われる秋祭りの準備のために、他の母親たちと他愛ないおしゃべりをしながら里芋の皮を剥(む)いている場面から第1話は始まります。これから何か不吉な、悲劇的なことが起こるんじゃないかという予感がぷんぷん漂ってくるんです。桐野夏生(きりのなつお)さんの『OUT』の冒頭で、深夜の弁当工場でパートの主婦たちがおしゃべりをしている場面を思い出して、この先で死体が転がる展開すら想像しました(笑)。その予感や想像はかたちを変えて、第1話の後半で実現していくのですが……これまで町田作品から受け取ってきたものとは全く異なる、この不穏さはどこから出てきたのでしょうか。
町田 自分に近しいものを書いてみたいと考えたのがきっかけです。私の地元は九州北部なのですが、慣れ親しんだ地元の、己が身近に感じていた生きにくさや息のしづらさを書いてみようと思いました。
母親たちが学校のイベントのために集まってカレーや豚汁を作るのは、私自身の体験から生まれたものです。私が小学生の頃にはすでにあり、私の子どもたちが小学生の頃にもありました。母親たちは料理を作り、父親たちはテント設営や会場準備を行うというのも変わりませんでした。ですから、子ども側の視点も、母親側の視点も知っています。そして母親側に立った時に、子どもの頃には見えなかったものが見えましたし、そこにいくつかの小さな違和感を覚えました。その違和感を膨らませ、作品に落とし込みました。
――その状況に対して、三好(みよし)という女性は異議を申し立てますが、主人公の類は違和感を抱きながらも黙々と作業を続けます。ただ、内面は静かに沸騰している。〈誰しもが自分を貶(おとし)めずに生きることのできる世界にしていくために、三好のように迷いなく言葉にできるひともこの世にはたくさんいる。そういうことを、わたしだって知らないわけじゃない。/でもこの町でのマジョリティはいまもまだ、家庭科室に残ったわたしたちなのだ〉。
町田 その鬱屈も、私自身の中にあったものです。三好ちゃんみたいに声をあげて「おかしい」と言える人に対して、私もその場で「そうだ、そうだ」とはたぶん言えない。後から「ごめんね。あの時言えなくて。でも、すごく格好(かつこう)良かったよ」と言うことぐらいしかできない気がするんです。そういった自分の中にある汚ない部分や弱い部分、情けない部分も、今回は全部さらけ出していこうと思いました。第1話は特にそうで、類は二〇代後半から三〇代の前半の、作家になりたいけどなれなかった頃の自分そのものなんです。ずっと地元暮らしをしてきた類は、自分はずっとここに閉じ込められてきた、外に出て行けなかったのは周りのせいだと思っている。私も若い頃は、今住んでいる地元から離れて都会に行けば、道が開けるんじゃないかと思っていたし、何者かになれるはずの私の才能を潰したのは田舎町の封鎖的な空気であったり、考えが古い親や周りの大人たちのせいなんだと思っていました。周囲のせいにしていれば、かわいそうな自分でいられますから。「いやいや、自分のせいだよ」と気が付いたのは、三〇代後半で作家になれてからなんです。「自分で勝手に自分の可能性とか自分の力を見限ってて、諦めていた部分があったんだな」と思えたことで、すごく生きやすくなったんです。
――でも、類はそのことにまだ気付けていないんですよね。そんな類は秋祭りの日に、自分を「外」へ連れ出してくれる存在と出会ってしまう。実は、類は小学生の時に、担任の女性教諭と町の外からやってきた男が駆け落ちしたという事件のことがずっと脳裏に焼き付いていて……。類の幻惑を描き出す筆致が魔術的で、サスペンスフルで、後半はドキドキしっぱなしでした。
町田 まるっきり自分と同じような人生では書いていてあまり面白くないなと思ったので、類と自分との間にあえて距離を作りたかったんです。そこで、重たい運命を彼女に背負ってもらおうと思いました。一行目から読者を殴り付けるというか「何書いてんだ、こいつ!」と思われたいという欲もあって、〈担任の先生のセックスを見たことがある〉という最初の一文を決めたんです。あれが、不穏の出発点ですね(笑)。いつもそうなんですが、先のことはほぼ何も決めずに書き出したんですよ。あの一文から第1話が大きく動き出していきましたし、第1話がああいう終わり方になったところで「これ、どうやって落とし前を付けるんだ?」となった。その疑問が最後の第5話まで繋(つな)がっていくので、第1話のあの一文のおかげでこの本が書けたと思っています。
同じ一日、同じ人物をいろいろな角度から
――「第2話 いつかのあの子」以降は、どのように構想を進めていかれたのでしょうか。
町田 秋祭りの一日の話にすることは決めていました。小学校の卒業生で町を出て行った女性、在校生のお母さん……と、一編ごとに主人公を変えていく。彼女たちは思い思いの一日を過ごすんだけれども、その一日が、それぞれの人生にとって輝く夕日みたいな存在になるといいな、と。夕日を見るとフワッと心をなでられて、切なさや焦燥感だったり、懐かしさや愛(いと)おしさが湧き出てくるじゃないですか。それと同じように、彼女たちがのちのち振り返った時に、秋祭りの一日に対して抱く感情はそれぞれ違うんです。それがいいのかな、そうしたいな、と思っていました。
――第1話から、夕方の時間帯がやってきたことを告げるドヴォルザークの「家路」が作中で鳴り響いています。夕日のイメージとの重ね合わせだったんですね。
町田 帰りたいっていう感情をものすごく震わせる曲じゃないかなと思います。美しい田舎の秋の風景が夕日色に染まって、そこにドヴォルザークが流れてくる。色と風景と音楽の絡み合いが、この一日の記憶をより強烈なものにしてくれるんじゃないかと思いました。
――第2話の主人公に選ばれているのは、この小学校の卒業生で、今は東京で看護師として働いている三十七歳の千沙(ちさ)です。恋人である七つ年上のバツイチの男性・翔琉(かける)は、再婚する気はないし子どもを作る気はない、と言っている。ある日、彼が元妻との間の一人娘の結婚式に出席することになり、整理しきれない複雑な感情を抱いたことから、衝動的に故郷へと帰ります。偶然、母校で秋祭りが開催されることを知り、顔を出してみると……と話は進んでいきます。千沙はどのようにして生み出されたキャラクターだったのでしょうか。
町田 私の人生はこうだったかもしれない、という想像からですね。私は子どもが三人いるんですが、子どもを産まなかった人生を想像することがよくあるんですね。若い頃、東京でバリバリ働く自分に憧れていた時期がかなり長くあったんです。もしも都会で好きなように働いていたら、結婚をしていたとしても、子どもを産まない人生もあったんじゃないかな、と。しかも、もしも三〇代半ばで翔琉のような男に恋をしてしまったら、今後の人生をどうするかについて相当悩んだんじゃないか。変則的ではあるんですけれども、千沙もやっぱり私自身の人生が素材になっていると思います。
――この町を出て行った千沙は、この町を出て行かなかった第1話の主人公・類の同級生であり、特別な繋がりを持っている。彼女と再会し、自分の過去とも再会することで、一歩前へと踏み出していく展開は感動的でした。
町田 千沙は「自分の幸せって何?」と、視界がぼやけてしまっているんですよね。そんな千沙を一番正してくれるのは、子どもの頃の彼女自身の、キラキラした素直さなんじゃないかなと思ったんです。私自身、子どもの頃の自分には嘘(うそ)をつけないし、裏切れないなと常に思っています。子どもの頃の文集を見ると、たいてい「将来の夢は作家」って書いてあるんですよ。それを見るたびに、憧れていた作家になったのに、文句を言いながら働いていたら子どもの頃の自分はイヤだよな、と背筋が伸びますね。
――第1話で、類視点で描かれた秋祭りの一日にはいくつかの謎がありました。そして、類の視点からは見えない、登場人物たちの知られざる顔があった。第2話では、実はそういうことだったんだとなるポイントが多々あって、驚かされました。
町田 第1話だけ読むと、千沙はただのイヤな女だなと思うかもしれないんですが、第2話を読むと「めちゃめちゃかわいそうじゃん」となるかもしれないし、「この人、頑張ってるな」となるかもしれない。類に関しても、結構がらっと見え方が変わるはず。おとなしくてぼーっとしている、自分の気持ちを外に出せない人なのかなと思っていたのに、「あれ? ひどい女じゃん!」って(苦笑)。同じ一日、同じ人物を、いろいろな角度から書けるのが楽しかったです。
――「第3話 クロコンドルの集落で」は、秋祭りのための料理の仕込みをしていたお母さん集団の一人、佳代子(かよこ)が主人公です。旦那さんは仕事よりも家庭優先で、一人息子の子育てにも率先して関わってくれる「最良の夫」。〈世間から見れば、わたしたちはとてもいい関係の夫婦だろう。そう見られている自信はある。/でも、セックスがない〉。
町田 「それはおかしくない?」と言っても、「だって、ママはママだから」と返ってきてしまう。ママという言葉に甘えている男がいて、傷ついている女がいる。それは家族というコミュニティの中で起きていることだから、外からは見えないし、入っていくこともできないんですよね。これ、どうすればいいんだろうかと自分でも悩んで、連載の時はいまいち書き切れず、単行本でだいぶ書き直したんです。一番大きな変更点は、ここの小学校に昔勤めていた田中(たなか)先生がおじいちゃんだったのを、おばあちゃんにしました。佳代子を励ませるのはやっぱり同性かなと思い、女同士の繋がりのお話に舵(かじ)を切ったんです。佳代子は佳代子で、最後に田中先生を支えてあげるんですよね。世代が違う二人のやり取りの場面は、自分でもすごく気に入っています。
同じ一日、同じ人物をいろいろな角度から
自分を守るには正攻法しかない声を上げて戦うしかない
――本作は、廃校が決まった小学校、という舞台設定が効いていると思います。小学校で行われる秋祭りは最後だという事実が、一日の特別さを際立たせている。ここにも町田さんの経験が反映されているんですか?
町田 モデルにしたのは、うちの母の母校の小学校なんです。二、三年前に廃校になったんですね。当時、最後の運動会の招待状か何かが届いて、「みんなと約束しているの」と言って、お弁当まで作って張り切って出掛けていったんです。帰ってきてからちょっとアンニュイになっていて、「なくなるっていうのは寂しいよね。楽しかったぶん、いろんなことを思い出しちゃった」と。私自身は自分が通っていた小学校に思い入れが全くないんですが、「こんなに感傷を覚える人もいるんだ」とすごく印象に残ったんです。母に「一クラス何人ぐらいいた?」とか、「ねえ、学校どんなだった?」と聞いて、「まだ学校あるよ」と言うから車で一緒に見に行って。児童数は学年で数人、全体で三〇人ほどという学校の規模感も、母から聞いたものをほぼそのまま小説で使わせてもらっています。
――「第4話 サンクチュアリの終わりの日」は、最後の在校生である、小学六年生の女の子・麦(むぎ)を主人公にしたお話です。麦の両親は四年前に離婚し、父と祖母に育てられていた。しかし、つい最近母が実家に来訪して、これからは千葉で母と一緒に暮らすことになる、と通告してきた。友人たちとのお別れが突然迫ってきたなかで、秋祭りへの参加は麦に複雑な感情を掻(か)き立てていきます。
町田 在校生のことも書きたかったんです。子どもには子どもの生きづらさがあり、苦しみがある、そのことを、麦を軸にして、今を生きている子たちの話として書きたかった。そこにはやっぱり、私自身の経験や感情も入り込んでいます。「大人になりたくないな」と思っていた子どもだったんですよ。子どもの生活ってイヤなこともたくさんあったけど、親に庇護(ひご)されていて、家に帰ればおいしいご飯とお風呂があって、お腹(なか)いっぱいですやすや眠って。「大人になったら、どうせしんどいんでしょう」「労働しないとお金もらえないんでしょう」と考えていた(笑)。ずっと子どものままでいたかったんです。
――今のこの時空に留(とど)まっていたい、「ここにいたい」という気持ちは、第4話で初めて出てきたものですよね。
町田 そうですね。この町から出ていきたい、今の状況をなんとかして変えたいという人だけではなくて、「ずっとここにいたい。このままの生活がしたい」と願っている人も絶対いるよなと思ったんです。それはどうやら叶(かな)わなそうではあるんですが、麦にとっても、いずれは自分の原点となるような始まりの一日になったのかなと思います。彼女は、お父さんの思い出があんまりないので、この日起きたことはずっと大事に胸にしまわれていくものだと思う。たぶん、お父さんにとっても同じですよね。
――父も娘も、この日のことを一生忘れないと思います。出番こそ少ないんですが、お父さんの側の物語も痛切でした。子どもの頃に「神童」という名札を貼られてしまったことが、その後の人生の呪いになってしまっているんですよね。
町田 「あなたはこういう人」という枠に他人を押し込め、そこから出て行くことを許さないし、許せない。そういうひとはどこでもいますし、そういう雰囲気はどこにでもあります。しかし、人数の少ないコミュニティにおいてはそれが一層際立つのではないでしょうか。私は「○○さんちの娘さんで、いまは△△さんちの奥さんで、□□ちゃんママ」という名札がついていて、その名札を折々に感じるのがとても嫌でした。そのどこにも本当の自分が存在しておらず、なのに名札だけで人となりが判断されているような気がしたんです。自分の自信のなさの表れだったのかもしれないと、今では思いますが。
――「第5話 わたしたちの祭り」は、第1話で先行世代の女性たちの男尊女卑を非難していた、三好さんが主人公です。勇敢で誠実な行動を取ることができる彼女にも、見えていない部分は多々あったんですよね。
町田 人って、行動だけで判断しちゃうじゃないですか。その人がどうしてその行動に至ったかが分からないのに、外から見たものだけで批判する。でも、人ぞれぞれに事情があるんですよね。気が付かなかった、気が付けなかったことで、自分にそんなつもりはなくても、誰かにとっての加害者になることもある。正しさは見方によって変わるんだということを、何十年か越しで三好が学んでいく話です。そして、類が「落とし前」を付ける話でもあります。連載の時は類のことが全然捉えきれていなくて、まるまる書き直しましたね。「この後どうなるかは、みなさんのご想像にお任せします」でもいいのかなと一瞬思っちゃったんですが、私の好きなやり方ではないな、と。問題提起をした以上は、私なりの回答を書きたい派なので、こういう展開になりました。
自分を守るには正攻法しかない声を上げて戦うしかない
――多視点群像形式ならではの快感もありました。そう言えば、全編にずっと出ていて気になっていたあの人が……「持ってった!」と(笑)。
町田 そういう気持ちになって欲しかったので、嬉(うれ)しいです(笑)。「それはおかしい。間違ってるよ」とはっきり指摘してくれる若者を書きたかったんです。若い子だからこそ、先を生きている人たちの古い考えを打ち壊すこともできるし、「何やってんの?」って叱ることもできると思うんですよね。自分を守るには正攻法しかない、声を上げて戦うしかないんだなって、そこの部分を書けた時は気持ちが良かったです。
しあわせは自分の手で掴んで離さないということ
――島田雅彦(しまだまさひこ)さんが「現代小説の九割は東京が舞台」とおっしゃっています。小説の世界では東京の風景、東京の価値観がマジョリティになっているということだと思うんですが、日本全体のバランスを考えてみると、マイノリティとマジョリティは入れ替わります。本作に登場する田舎町の風景に対しても、「原風景」と言ってしまいそうになりますが、現在の風景なんですよね。
町田 九州北部にあるかなた町の物語として書きましたが、特異な町として書いたつもりはありません。同じような風景、同じような雰囲気を孕んだまちは日本の至るところに存在していると思います。本作で取り上げている男尊女卑の問題も、かなた町だけの問題ではない。「いや、古いよ。遅れてるよ」と感じる方はもちろんいると思います。ですが、今この瞬間もこの問題を抱えて悩んでいるひとだっているはずです。
この作品から「町田は田舎が大嫌いなんだな」と思われるひともいるかもしれませんが、好きです。自然が豊かで、人々は何だかんだで優しい。好きだからこそ、いいところだけを書くのではなくて、いい方向に変わってほしいことも描いておきたいんです。その変化も、いつか書きたいんですよね。
――最後に一つ、お伺いしたいことがあります。第5話で、「しあわせは誰かの手から貰うんじゃなくて、自分の手で掴んで離さないでいるしかないんだよ」というセリフが出てきます。自分の手で掴(つか)むものだというところまでは自分の中にイメージとしてあったんですが、「掴んで離さないでいる」、このフレーズにハッとする感覚がありました。このフレーズは、以前から町田さんの中にあったものなんでしょうか?
町田 まったく! そのセリフはその場面を書いている時にスッと出てきたもので、一切悩んでないんですよね。後から原稿を読み返して、よくもそんな言葉が自分の中から出てきたなって、時々びっくりします。「あらあら、私すごいいいこと書いているじゃない。天才?」って(笑)。
――ご自身の経験、実感にもぴったりくる言葉だったのではないですか。
町田 そうですね。しあわせを掴んだことで満足しちゃったら、いずれ慣れて手を離してしまう。人って傲慢になるものだし、持っていることが当たり前になってしまうから。しあわせが手の中にあることを感じ続けなければいけないし、掴んだものを握り続ける努力が必要だということは、このところよく感じます。さっき子ども時代の文集の話をしましたけど、「将来の夢は作家」と書いていたあの頃の私のためにも、頑張らなければなって思うんです。
――自分の今いる場所やこれからあるべき場所を確かめる、町田さんにとっても大事な一作になったんですね。
町田 この本は、登場人物たちがこれから先の人生で、きっと何度も振り返ることになる特別な一日のお話です。彼女たちと同じように、私自身も将来この作品のことを何度も振り返るんだろうなと思える、特別な一冊になりました。楽しんでいただけたらと思いますね。この小説の登場人物たちのことを、故郷にいる自分の友達や、遠い親戚の人たちみたいに思ってもらえたらな、と。心の隅に彼らの存在がちょっとだけ残っていて、「そういえば、あの人は元気かな。どうなったかな」って思い返してもらえるようなことがあったら、すごく嬉しいです。