『対馬の海に沈む』
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[レビュアー] 堀川惠子(ノンフィクション作家)
追いつめられた男性職員は対馬の海に…(※画像はイメージ)
堀川惠子・評 『対馬の海に沈む』窪田新之助[著]
2024年、最高のノンフィクション。そう断言すると異論も出そうだから、もっとも記憶に残る作品、と書き直す。取材力、視点、根気、情熱、そして覚悟。書き手に求められるすべての要素が本書にはある。
巻頭に「小宮厚實さんへ」との献辞が記されている。亡き小宮さんに、著者は2度しか会えていない。たった2度の取材が、本書の根幹をなす。魂の対話があった。
2019年、長崎のJA対馬に勤める44歳の職員が、自らの運転で海に飛び込むようにして転落、溺死した。JAの共済事業で「日本一の営業マン」と呼ばれ、プロ野球選手並みの年収を誇った男は、大がかりな不正契約、流用をした疑いで告発される。JA対馬は、不正は男ひとりによるものとして片付けた。
こんな巨悪を、単独で為せるのか。著者は島を訪ね、男の足跡を追う。次々と判明する事実に驚愕する。不正流用は、分かっているだけで22億円。人口3万、地場産業のない国境の過疎の島で、男の金は不動産はじめ地元経済を潤わせていた。「マネーロンダリング」「神の手」「打ち出の小槌」。異様な資金の移動に、共犯者の存在を確信する。
「ノンフィクションは、とことん取材した者にだけ許される推測がある」。そう言ったのは立花隆だが、いっそ男が島にもたらした「経済特需」の数値化を試みてほしいほどだ。
登場人物は、配慮を要する数人を除き、ほぼ実名。だから被害者が加害者へと暗転する終盤の説得力が倍増する。匿名の人物に都合よく語らせるお手盛りノンフィクション全盛の今、稀なことだ。
日本農業新聞の元記者が、業界のガリバー・農協に対峙し、不正を暴く。それだけなら著者の前作『農協の闇』の類書に過ぎない。今作、取材は深化。男の上司だった小宮厚實さんの農協に寄せる真摯な願いが、著者に伝播する。告発の書は最終盤、鎮魂の書となる。著者は「オート・ハンシャ」なる“禊”を経て、不正の背後に広がる闇を覗く。男を対馬の海へと追いつめたものは一体何だったのか。余韻を味わいながら、カバーを外してみた。デザイナーも編集者もいい仕事をしている。
本田靖春、山際淳司、吉村昭、佐野眞一―。綺羅星のごとき書き手を失って久しいノンフィクション界隈。スポットライトは、新たなスターを探している。農業をしゃぶり尽くすもよし、新境地を拓くもよし、とにかく書き続けてほしい。第22回開高健ノンフィクション賞受賞作。