『ぼくの文章読本』
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<書評>『ぼくの文章読本』荒川洋治 著
[レビュアー] 杉本真維子(詩人)
◆時空超える言葉の地下水脈
以前、お年寄りに「よい思い出になりました。ありがとう」と言われて驚いたことがある。若き日の私には思い出という言葉が遠かった。それはどこか人生のおわりを意識させた。しかしあれから20年近くが経(た)った今ちょうどよく馴染(なじ)む。人生のおわりを意識させるのはそのままだが、受けとめ方が変わったのだ。
荒川洋治『ぼくの文章読本』には思い出がつまっている。かばん、栗拾い、お尻の思い出などいろいろあり、人は思い出によって生きるのだと実感する。人生のおわりを恐れている場合ではない。確実に時間は経つ。おいる。ならば、受けいれてたっぷりと思い出を吸いこんで、たっぷりとした心で生きていく。それしかないのだと思った。
そのために本がある。これは大変さいわいなことだと荒川洋治の文章はいっている。本書のなかには、ないに越したことはない、というような日々の躓(つまず)きも書かれているが、あったらあったで、困らないものだ、という気持ちになる。思い出になってからが勝負だ、とも思える。
ある本のなかに、誤解をしてしまう「私」が出てくる。荒川はそんな「私」を「理を通す道という道が尽きはてている」と捉え、「私」という一個人とそれが抱えているものを守る。たとえ誤りであっても、そのなかには取り戻すことのできないその人の時間がある。「踏みつけ」になどできるはずがないことを改めて確認する。
そのようにして、心のなかの素直なひかりのようなものを伝いながら、暗い洞窟のなかを言葉で歩いていくと、思いもかけないものを発見する。それは発見者自身を超え、時空を超え、すべての人間に通ずるもの。地下水脈のようなもの。それが詩だ、と本書はいっているのだと思う。
ところで、荒川洋治の文章は要約できない。言葉が詩のように等しいおもさで書かれているからだ。詩と文章は決して同じものではないが、遠いものでもない。そのことを荒川は荒川自身の文章で示していると言える。
(河出書房新社・2475円)
1949年生まれ。現代詩作家。詩集に『水駅』『渡世』『真珠』など。
◆もう1冊
『文学の空気のあるところ』荒川洋治著(中公文庫)