『江戸川乱歩傑作選』
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はシャツ一枚になって、思うがままに屋根裏を跳梁しました。
[レビュアー] 北村薫(作家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「引越し」です。
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江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」の主人公、郷田三郎は、下宿屋の押入れから屋根裏へと上がります。そして、天井の節穴から他人の生活を盗み見るのです。
乱歩の『探偵小説四十年』に引かれた回想には、大阪の自分の家の、床の間の天井から天井裏をのぞいた経験が元になっている―とあります。一方、NHK編『文壇よもやま話』では、自分の家の隣の空き家で一人暮らしをしていた時、押入れの天井板を上げてのぞいた―と語っています。
床の間の天井では高すぎる。押入れの上の段からなら、すぐ首を出せます。これは後者の方が本当らしい。
いずれにしても乱歩は、のぞいただけ。上がってはいない。汚いからです。
では郷田三郎は、どうして屋根裏の散歩者になりえたか。彼がうつった東栄館は新築でした。天井も真っ白、壁もしみひとつない。そして、天井裏に首を出してみれば―。
幸いなことには、建てたばかりの家ですから、屋根裏につき物のクモの巣もなければ、煤やホコリもまだ少しも溜まっていず、鼠の汚したあとさえありません。ですから、着物や手足の汚なくなる心配はないのです。彼はシャツ一枚になって、思うがままに屋根裏を跳梁しました。
郷田が下宿をうつらなければ、事件は起こらなかった。「屋根裏の散歩者」という物語が動きだす引き金になったのは、実は引越しだったのです。