『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』
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【毎日書評】大河ドラマ『べらぼう』で話題。蔦屋重三郎はなぜ斬新だったのか
[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)
NHKの大河ドラマ『べらぼう』が話題です。なかなか攻め込んだ内容でもあり、これまで大河ドラマを見たことがなかった僕もすっかりハマってしまいました。
という余計な話はともかく、ドラマが盛り上がりを見せるなかで主人公の蔦屋重三郎についてもっと知りたいと感じている方も少なくないはず。
そこでご紹介したいのが、『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』(田中優子 著、文春新書)です。
蔦屋重三郎は一七五〇年(寛延三)に新吉原(いまの浅草寺裏の千束四丁目)で生まれ、一七九七(寛政九)に亡くなった版元、つまり出版業者である。本姓は喜多川で、名を柯理(からまる)と言い、屋号が蔦屋で、店の名を耕書堂と称した。狂歌連での狂名は蔦唐丸(つたのからまる)である。父は尾張出身の丸山重助、母は江戸の廣瀬津与。数え年七歳の時に母が家を出たという。
重三郎は養子に入ったので、自身の姓は喜多川になった。そして一七七三年(安永二)ごろ、新吉原大門口五十間道に貸本、小売りの本屋を開店した。(「はじめに」より)
もし作家だったとしたら、広く名を知られたことにも納得できることでしょう。しかし彼は出版業者でした。なのに、なぜ構成にまで名を知られているのか。それは、北川勇助という青年を世界的に有名な「喜多川歌麿」に育てた人物だから。あるいは、能役者の斎藤十郎兵衛から才能を引き出し、「東洲斎写楽」という浮世絵師にしたから。
他にも功績は少なくありませんが、つまりは本書のタイトルにもあるように“江戸を編集”してみせたわけです。違った表現を用いるなら、才能のある人物の能力を最大限にまで引き出す“出版プロデューサー”のような立場だったとも解釈できそうです。
本書は、当時の印刷や出版の歴史にはじまり、蔦屋重三郎が生まれ育った時代のあり方、編集に関するトピックスなどを幅広く網羅した一冊。きょうはIII「吉原を編集する」のなかから、ドラマでも描かれている2つのトピックスを抜き出してみたいと思います。
吉原細見とは?
当時の吉原を代表する出版物である「吉原細見」は、吉原の茶屋、妓楼、そこに在籍する遊女を案内した刊行物。いまでいうガイドブックですが、作者が存在せず、技術、デザイン、情報収集能力がものをいうジャンルでした。
吉原細見は当時、版元・鱗形屋(うろこがたや)孫兵衛がほぼ独占していた。
鱗形屋孫兵衛とは、一六五八〜六〇年(万治年間)ごろに大伝馬街で出版業を始めた版元で、蔦屋重三郎の時代にはすでにその歴史は一〇〇年以上を刻んでいる。
上方で生まれた仮名草子を扱い、一七〇〇年代に京都で八文字屋八左衛門が盛んに作っていた「八文字屋本」という浮世草子を独占し、一七二一年(享保六)にできた地本問屋仲間に入り、菱川師宣の作品を手がけていた。
菱川師宣は、本の挿絵から浮世絵を独立させた「浮世絵の祖」である。(43ページより)
つまり鱗形屋は、江戸の版元の歴史を代々たどってきた「老舗」だったわけです。そんな鱗形屋孫兵衛が吉原細見を独占したのは、八文字屋本の江戸における独占販売業者だったため。
それが独立し、江戸の本になったのが吉原細見だったというわけです。
ちなみに江島其作の八文字屋本『けいせい色三味線』には、遊女たちの名前を列挙した「名寄(なよせ)」がありました。しかし吉原細見はその後、吉原の簡易地図に店を配置し、そこに遊女の名を入れ込む形にしたそう。
毎年、判型や編集方法を通じて情報を更新しつつ、鱗形屋孫兵衛は吉原細見を刊行し続けたのです。(43ページより)
平賀源内を吉原にご案内?
当初、義兄の引手茶屋の軒先を借りて本を売ったり貸本をしていた重三郎は、満23歳になった1773年(安永2)、鱗形屋孫兵衛の吉原細見の「改め」「卸し」「小売り」の業者となりました。
「改め」とは、妓楼の変化や遊女の出入りの調査、情報収集、編集を行うこと。遊女は入れ替わり、妓楼も撤退や新設があるため、毎年出される吉原細見は最新情報を収集して整理する人間が必要になります。つまり、それが「改め」であるわけです。
その立場で重三郎は1774年(安永3)、『細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)』にたずさわることになります。そして、この細見の序文は福内鬼外(ふくうちきがい)こと平賀源内が書いたのでした。ご存知のとおり平賀源内は、多様な才能を駆使していたマルチな才人です。
しかし前述のとおり、情報誌である細見に作者は存在しません。したがって、売れ行きを左右する可能性のある要素のひとつとして、序文の書き手が重要な意味を持つことになるのです。その文章を読んだ人のなかには、友人との話題にしたいというような気持ちが生まれ、それが購入する同期になるからです。
しかし源内は吉原に出入りしない。ゲイだからだ。
鱗形屋で仕事をした形跡もない。「福内鬼外」の名前で序文を入れたことに理由があるだろう。一七七〇年(明和七)、福内鬼外の名前で作った浄瑠璃『神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』が初演された。
これは今日に至るまで上演され続けている人形浄瑠璃である。
プロの浄瑠璃作者でもなんでもない平賀源内=福内鬼外の浄瑠璃がヒットしたのは、関西方言の浄瑠璃に、江戸語を入れ込んだからだった。(45〜46ページより)
かくして福内鬼外は浄瑠璃界の人気作者となります。しかも小説家でありエッセイストであり、本草学者であり鉱山開発や工芸品を手がける産業指導者でもありました。ですから、版元が放っておくはずもなかったわけです。
いずれにしても重要なポイントが、“細見と福内鬼外を組み合わせる”という重三郎の発想の斬新さであることは間違いありません。つまり“出版物に付加価値をつける”ことを発想したわけで、それは従来の鱗形屋には見られなかったものでもありました。そしてそうした発想は、その後の蔦屋の手法にも頻繁に見られるものでもあるそうです。
蔦屋重三郎の仕事の基盤はこのように、鱗形屋を介して幾重にも糸が伸びるネットワークにあった。ひとつは生まれた町である吉原に、もうひとつは鱗形屋を中心とする出版界に、大きな可能性をはらむ地盤を持っていったのである。(47ページより)
このプロセスは大河ドラマ『べらぼう』のなかでも再現されていたので、ピンときた方もいらっしゃるのではないでしょうか。いずれにしても注目に値するのが、こうした重三郎の発想力や行動力が、現代におけるビジネスにも違和感なく当てはまるということです。(44ページより)
本書を確認してみれば、蔦屋重三郎の先進性を実感できるはず。また、史実を検証すればするほど、ドラマについての興味もさらに深まっていくことでしょう。そういう意味では、まさに“いまこそ読むべき一冊”であるといえそうです。
Source: 文春新書