『能十番』
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『能十番 新しい能の読み方』いとうせいこう/ジェイ・ルービン著
[レビュアー] 金沢百枝(美術史家・多摩美術大教授)
謡はラップ 読む「文学」
後学のため、国立能楽堂に通って十年以上が経(た)つ。海外育ちなので日本文化にすこしでも馴(な)染(じ)もうと思ったのがきっかけだが、すぐに能の虜(とりこ)になった。シテ(主役)のわずかな仕(し)草(ぐさ)で変化する面(おもて)の精巧さや、控えめな仕草に宿るリアリティ、登場人物と地(じ)謡(うたい)がうたう詞章に喚起されて、能舞台は、ときに松風が吹くさみしい海辺や鬼婆のいる荒野、友を失った秋の野へと変容する。その瞬間が最高に心地よい。
能は舞、楽、謡からなる総合舞台芸術だが、本書は、能を「文学」として読むことを提唱する。能のストーリーも、掛(かけ)詞(ことば)のおもしろさも、能の脚本である謡曲によるところが大きいからだ。本書は、その謡を古典芸能にも造(ぞう)詣(けい)が深いいとうせいこうが現代語に訳し、夏目漱石や村上春樹など近現代文学の翻訳で知られるジェイ・ルービンが、いとうの文章を英訳した。
タイトル通り、十の能曲の謡原文、現代語訳、英訳を収めたきわめて濃密な一冊である。韻も再現されている。能には、五つのカテゴリーがあるが、それを網羅し、世を寿(ことほ)ぐ神能物、修羅物、鬘(かずら)物、ヒューマンドラマ、スペクタクルとさまざまだ。
いとうは、謡はラップだという。重要な部分は繰り返す。掛詞で音を連ねて、イメージが広がってゆくところも似ている。たとえば「善(う)知(と)鳥(う)」。親子の愛を利用した殺生を悔やむ狩人。親鳥が「うとう」と鳴くと子は「やすかた」と鳴く習性を利用して雛(ひな)を捕ると、「親は空から血の涙を降らせ」「まるで紅葉の葉が落ちて作る橋のように」なる。また、英訳でハッとした部分もある。「高砂」の最終部、「颯(さつ)々(さつ)の声ぞ楽しむ」は、松風で「袖がひるがえるような爽やかな音」だが、主語が必要な英訳では、踊る松の精たちの袖が舞でこすれる音とわかるのだ。
造本もすばらしい。江戸の「光悦謡本」を模し、小口を袋綴(と)じとした和本で、函(はこ)には雲母刷模様の鶴、表紙には露草があしらわれている。(新潮社、3685円)