『最近』
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『最近』小山田浩子著
[レビュアー] 大森静佳(歌人)
独特の文体 異様さの魅力
妻が首を回すときに鳴る「ジャリジャリ」という嫌な音。一緒に居酒屋に行った相手が直(じか)箸(ばし)でかき混ぜるタコワサの粘ついた汁。不快感の手前のざらっとした他者の手触りを書くのが抜群に巧(うま)い。
海外でも評価の高い小説家による連作短編集は、平凡な夫婦とその周りの人々を交代で語り手としてコロナ禍以降の日常を描く。特別な出来事は何も起こらないのに、読後感は怪談のよう。夫が救急搬送された深夜、待合室で思い出す「立ちくらみがしたときに赤い猫を見ると死ぬ」という噂(うわさ)。そこから物語が始まるかと思いきや、検査で異常が見つからなかった夫は笑顔さえ浮かべつつ帰宅する。「赤い猫」の噂も、別の短編で危篤の大伯母の布団(足があるはずのない位置)がぴょこぴょこ動く超常現象なども、小さな謎は謎のままで回収されない。
改行や読点がほとんどない文体が独特だ。このホラーっぽさの正体は何だろう。醤(しょう)油(ゆ)漬けのアサリを一粒食べるだけの数秒の動作を、著者はじつに四行分の字数をかけて綿密に追う。人間の動きを一から十まで全部描写すれば、おのずとそこに異様な不気味さが生まれるのだ。見慣れた花や人間の皮膚なども、細部を拡大して観察すればグロテスクなように。著者の隙間のない文体は一瞬をスローモーションのように引きのばす。そこに生じる原色の不穏に強く惹(ひ)きつけられる。
マスクにこもる自分の息の臭い。スマートフォンの液晶画面につく皮脂。他人の歯や箸に光る唾液。コロナ禍を経て敏感になった衛生の感覚が、ひやっとするようなリアルさで掬(すく)いとられる。
そもそも身近な人間も世界そのものも、濃密に異物。つねにこちらの予想を裏切ってくる。だからこそ輝く、生きることの猥(わい)雑(ざつ)な豊かさと面白さ。その手応えをこの小説は思い出させてくれる。
飲食や葬儀をめぐるシーンに特に注目してほしい。人々は食べ、排(はい)泄(せつ)し、やがて死ぬ。吐(と)瀉(しゃ)物(ぶつ)、耳(みみ)垢(あか)、膿(のう)汁(じゅう)など不浄で不快なものがばんばん出てきて、その突き抜け方が神話のように眩(まぶ)しくユーモラス。不思議な元気が湧いてくる一冊。(新潮社、2420円)