『セルフィの死』
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世界を支配しているのは「現象」ではなく「感情」だ
[レビュアー] 市街地ギャオ(作家)
芥川賞作家・本谷有希子による最新作『セルフィの死』が刊行。
本作の魅力を作家の市街地ギャオさんが語る。
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文字を追いかけることそのものの中毒になるような読書体験が好きだ。一文一文に魅せられ、読むのを止められない自分の真横で自然と物語が流れていく感覚を、読みながらずっと抱いていた。言葉に深く没入することで、その言葉が包括している世界では一瞬が永遠になり、永遠が一瞬になる。時間の伸び縮みを最大のレンジで操れる表現媒体はきっと文字なのではないだろうか。
主人公はインフルエンサーになりたい無職二十代女性のミクル。目に入るものすべてに悪態をつくことでしか生きていけない彼女は、自身の願望の浅ましさを自覚しながら、それでもフォロワー数に焦がれすぎて全身を引き裂かれそうになっている。そんなミクルの生き様は喜劇性を帯びながらも胸に迫るものがあった。SNSにアップするための写真を撮られた瞬間に自分の顔が醜いイソギンチャクになっていくという、もはやメタファーではなく直喩と言っても過言ではないマジックリアリズムで幕を開けるこの小説世界は、ミクルの過剰な自意識に牽引される形で物語が進んでいく。
ミクルの顔がイソギンチャクになるシーンは特段ドラマチックには描かれない。他の数ある自然現象と同じようになんてことのないこととして、流れるように描かれる。空が青いのと同じ理屈で、写真を撮られると顔がイソギンチャクになるのだ。だから当然なぜイソギンチャクなのかの説明はなされない。物語の起伏は事象のセンセーショナルさではなく、ミクルから語られる高濃度の言葉にすべての裁量が委ねられている。
老舗洋菓子店のテラス席、原宿の夢カワ綿あめ屋、完全オートメーション化された回転寿司屋、浅草での着物食べ歩き。とにかくバズりそうな場所でバズりそうなことをして……とフォロワー数といいね数のために奔走するミクルだが、その批評眼は冷静かつ痛快で、小説内の通奏低音になっている。バズの軽薄さについても、バズに依拠してしまう自身の虚しさについても、ミクルの言動は視野狭窄なようでいて、その実どこか俯瞰した視点を孕んでいる。もしかしたら、自分の中に潜っていくことと世界を俯瞰することは似ているのかもしれない。この小説の屋台骨になっているのはバズや承認欲求の最大公約数を物語というフォーマットで再解釈したものではなく、ただひとりのねじれた感情とそれを表現するために尽くされた言葉たちなのだ。
この世のすべてにつっかかっていく豪胆さと、その裏にある切なさ。ミクルの視点で語られる世界は、ミクルの承認欲求を跳ね返す壁のようでいて、いつだってミクルの感情に支配されていた。ミクルの感情次第でいくらでも世界は捻じ曲がった。そして、いつの間にか読んでいる自分の心さえもミクルの感情の支配下に置かれていたことに気づく。肥大した感情が日常に風穴を開け、異界を押し広げていくラストシーンには、驚きと困惑がありつつも承認欲求の顛末としてのカタルシスが確かにあり、突如綱を切られたぼくはなかなか現実世界に戻ってこれなかった。