『鬼谷子 全訳注』
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<書評>『鬼谷子(きこくし) 全訳注 中国最古の「策謀」指南書』高橋健太郎 著
[レビュアー] 安田峰俊(ルポライター 立命館大学人文科学研究所客員協力研究員)
◆状況に柔軟に臨機応変たれ
漢文や中国文学は、ビジネスの世界ではあまり人気がない。ただ、数少ない例外は『論語』と『孫子』だ。とりわけ孫子は、兵法書であるだけに実務に直結しそうなイメージがあるためか、同書の名を冠したビジネス書は無数に存在する。もっとも、中国古典世界における戦略の書は『孫子』だけではない。日本での知名度は高くないが、『鬼谷子』もそのひとつである。
高橋健太郎『鬼谷子 全訳注』は、上智大学大学院で漢文学を専門とした著者が、『鬼谷子』本文の全訳に初めて詳細な解説を付し、さらに解題を加えた労作である。
かつて春秋戦国時代、各国がしのぎを削るなかでさまざまな思想学派が生まれた。合従連衡(がっしょうれんこう)、すなわち合従策(当時の最強国である秦以外の国で同盟を締結する策)を唱えた蘇秦や、連衡策(合従策を破るために秦が個別の国々と同盟を結ぶ策)を唱えた張儀らの名で知られる「縦横(しょうおう)家」もそうだ。縦横家は現在でいう外交戦略コンサルタントで、弁舌を武器に各国の権力者に自分を売り込み名を上げんとした遊説家たちだった。『鬼谷子』の作者は、蘇秦・張儀ら縦横家の師とされる鬼谷。彼について残された確かな記録はわずかで、実在を疑う説もあるが、さておき『鬼谷子』は縦横家のノウハウを伝える書として伝えられてきた。
本書は解説箇所は平易な文体で、原書はマイナーな古典とはいえ極めて理解しやすい。『鬼谷子』は、権力者を説得する手順としてその第1ステップに「変」、すなわち周囲の状況の変化を観察したうえで方針を決めよと説く。現実の本質は変化であり、いかに牢固(ろうこ)に見える状況であれ変わらぬものは存在しない。ゆえに柔軟に、臨機応変たれと説くのが同書の世界観だ。現代に通じるところも多いといえよう。
いっぽうで、『鬼谷子』は一種の技術書だ。その説得の術をもって何をなすべきかは伝えない。おそるべき説得術を、いかなる目的のために用いるかは、その使い手の心にかかっているのだ。
(草思社・2420円)
作家。専門は漢文学。古典や名著を題材に研究・執筆。『真説 老子』など。
◆もう一冊
『戦争の中国古代史』佐藤信弥著(講談社現代新書)