<書評>『そこから先は別世界 妄想映画日記2021-2023』樋口泰人(やすひと) 著
[レビュアー] 風元正(文芸評論家)
◆満身創痍で見た未知への光
ママチャリでサンダルはいて「爆音ゴダール」に通った東京・吉祥寺のバウスシアターが閉館してから、もう11年たった。仲間はみんな、拠点を失ったboidの経営を心配したけれども、いつの間にかプロデュースする爆音映画祭は全国に広がり、樋口泰人はボヤキながら還暦をとうに過ぎても息災で、映画上映すらできないコロナ禍もなんとか切り抜けようとしていた。しかし、神様は残酷である。川上未映子が推薦文に「あらゆる失われ」と形容する通り、またまたとんでもないピンチが訪れた。
「盟友」青山真治が世を去り、「親友」中原昌也が瀕死(ひんし)の病で入院して、自身もがん宣告を受け手術し闘病生活へ。凶事は連鎖して襲いかかる。「満身創痍(まんしんそうい)」の記録は、深刻な事態や心情へ踏み込むのは繊細に避け、システムに包囲された社会の理不尽にときたま憤りつつ、乾いた筆致で綴(つづ)られる。「病院食はまだ衝撃的にまずい」といわれれば、不謹慎な読者はつい笑ってしまう。決定的なカタストロフィーが訪れないホラー映画のような宙吊(づ)りの3年間。
しかし、甫木元空(ほきもとそら)や湯浅学や斉藤陽一郎やエクスネ・ケディなどなど、一風変わった人物たちと「ワイワイ」しながら暮らす日々には、なぜか、明るい光の粒子が降り注いでいる。検査の直前に対面した白浜・アドベンチャーワールドのジャイアントパンダ「ふうひん」に「大したことなんて何もしなくていい。何かがただそこにいるだけ、という奇跡のような瞬間」を見つけるスピリットは、まさしく「別世界」へ入りつつある。
貸しレコード屋の店員だった学生時代から、樋口はむすうの映画と音楽と人を繫(つな)げてきた。巻末の「月別目次──観た聴いた音調整したリスト」の膨大な固有名詞を眺めるにつけ、作品は、生者と死者の境界もないごたまぜで豊穣(ほうじょう)な時間を孕(はら)んでいると改めて実感する。病を得ても「世界のゆがみとの終わりのない戦い」を続けようとする者の日乗は、わたしたちを未知なる領域への旅立ちへと誘う契機に充ちている。
(boid・4180円)
1957年生まれ。映画批評家。98年、レーベル「boid」設立。
◆もう一冊
『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』樋口泰人著(青土社)