きっとあなたも、歩きたくなる

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私の同行二人

『私の同行二人』

著者
黛 まどか [著]
出版社
新潮社
ジャンル
歴史・地理/旅行
ISBN
9784106110733
発売日
2025/01/17
価格
1,078円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

きっとあなたも、歩きたくなる

[レビュアー] 白川密成(第57番札所・栄福寺住職/真言宗僧侶)

猛暑の夏から雪の舞う晩秋まで、ときに道に迷い、ときに転倒しながらも歩み続けた108札所・1600キロの遍路道。俳人・黛まどかさんが半生とともに綴った『私の同行二人―人生の四国遍路―』(新潮社)を、第57番札所・栄福寺(愛媛県今治市)住職で『マイ遍路』著者の白川密成さんが読み解く。

「のんびり歩く」ーサン・テーレー

 俳人の黛まどかさんが2度目の四国遍路を歩く。しかも八十八ヶ所霊場1200キロの道だけでなく、「別格二十霊場」を加えて歩くことで、その距離は1600キロとなる。本書『私の同行二人 人生の四国遍路』のことを知った時、訪れた書店で思わず手が伸びた。
 僕自身が、四国八十八ヶ所の寺(五十七番・愛媛県、栄福寺)の住職であるし、自分の歩き遍路巡礼を『マイ遍路』という本にまとめた経験もあった。
 しかし「読みたい」と思った大きな理由は、長い距離を移動しながら祈りを重ねる「聖地巡礼」に僕自身がまた行きたいと思っていること、そして黛さんが1回目の遍路を描いた『奇跡の四国遍路』をかつて読んだ時の感覚が、不思議と居心地のいいものであったからだった。「この人が2度目の遍路で何を受けとったか知りたい」。純粋にそう思った。
 本書に一貫して流れているテーマとなる言葉が、「サン・テーレ」だ。聖地を行く人、宿無しといった意味という。英語のsaunterは、日本語にすると、のんびり歩く、散歩する、ぶらつく、といった意味がある。著者は本書の冒頭の一語に「逍遥」(しょうよう、気ままにあちこちを歩き回ること)という言葉を用いる。四国遍路の神髄のひとつがここにあり、本書はその魅力を読者に存分に届けてくれる。

2度目の功徳

「2度目の遍路には、2度目の功徳がありますよ」
 僕が最初の歩き遍路を終えた時、四国遍路を何度も歩いた僧侶から、そんな言葉を掛けられたことがある。
『私の同行二人』でも、拙著『マイ遍路』でも登場する遍路の名物宿「ロッジ・カメリア」の主人も、「1回じゃわからんと思う。2回、3回とまわってみてな」と言っていた。僕はまだ1度の歩き遍路の経験しかないけれど、本書を読んで、著者はその“2度目の功徳”をしっかりと受けとったのだろうな、と感じた。
 1度目の遍路の時とは変化を見せる「<身体>との対話」、スペイン・サンティアゴ巡礼道や韓国プサン-ソウルなど、世界中を歩いてきた著者にとっても尽きることのない「<歩く>ことの魅力」、普段の生活がどこか遠くの世界に見えてくる「流れる<時間>の違い」、そして人生の中で避けることはできない死の悲しみや、自身の心の闇という「<苦しみ>に向き合うこと」。
 それは楽しいことばかりではない。しかし人生にとってかけがえのない、そのような体験に凝縮して出会えるからこそ、人々は四国遍路を繰り返し歩き祈ってきた。本書の読者は、それを追体験するように、大きな空を感じ、夜の山の闇を恐れ、大切な死者との対話を繰り返すだろう。

会話の心地よさ

 本書を読み進める中で心地よく響いてくるのが、ひとつひとつの「会話」だった。旅の計画を優先したことで、痛んだ著者の足をみた宿の人が言う「それは自然に逆らっとるわ」というひと言。
「どこかで会えますね」「また会いましょう」と何気なく交わす巡礼者との言葉。
 それらは自分だけの頭を堂々廻りするものではなく、不思議と巡拝者の心をゆるませてゆく。それは僕も遍路を歩くことによって経験したことであり、俳人である著者は、その何気ないけれど大切な会話をこの本に書き残した。
「亡くなった父がいつも言っていたわ。本道ではなく脇道を行くようにって」

俳句の声と遍路道

『私の同行二人』では、空海の言葉も重要な存在として紹介される。それだけでなく歩く著者と読者を強く結びつけるのが、やはり俳句の存在である。今回の本では、著者が遍路道で詠む俳句だけでなく、同じく俳人である父・黛執の句、種田山頭火の句、そして『万葉集』の短歌なども旅路の中で紹介される。
 そこに2度目の遍路が深まる中で、自分と他者、そして死者の間を流れる大河のような存在が、だんだん薄くなっていくような雰囲気を感じた。そしてそれは仏教がたしかに持つ風景でもある。
 普段、俳句とは馴染みのない読者(僕もそのひとりだ)も多いだろう。いくつもの草や花の名を丁寧に挙げ、その声に耳を澄ませ、自らと世界を生んだ自然に心動かされる感嘆を素直に吐露する言葉の数々は、会話ともまた地の文章とも違う世界であり、気がつけばいくつかの句を声に出して何度か発していた。
 そして、その自然の声をあたりまえに聴こうとする態度は、空海の持っている根源的な世界と一直線に結びつく。

日照雨(そばえ)してまた日照雨して冬遍路 まどか

 晴れている空に降る日照雨(ひでりあめ)に、遍路を歩くと何度も出会うことになる。どこか爽やかな気持ちになることもあるが、それを受けた冬の身体は、だんだんと冷えてくる。しかし1日中、雨に降られて歩いた日を、おそらく僕は生涯、忘れることはないだろう。

春の野にすみれ摘みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜寝にける (『万葉集』巻八、一四二四)

 春の野のあまりの懐かしさに一夜をあかす奈良時代の歌人の心情は、遍路を歩いた者にとって古歌と呼ぶには、あまりに近しい。

どうしようもないわたしが歩いてゐる
うしろすがたのしぐれてゆくか   山頭火

 歩く中で浮かび上がるのは、自然と一体となった壮大な気分ばかりではなく、受け入れざるを得ない、時に耐えがたい苦しみを抱えた「自分」という人だ。山頭火の自由律俳句が、こんなにもストレートに我が事のように聞こえてきたのは、本書が初めてだった。

死者との時間を積み重ねる

 黛さんがこの本の中で、つまり遍路を歩く中で感じ続けているのが、「死」なのだと思う。彼女は、遍路の中での不思議としか言えない特別な体験を素直に記し、そこにもまた死者の存在とそのはからいを思う。
 著者が本書で丹念に描く死者とのふれあいを読む中で、愛する人を亡くした残された人々にとって、四国遍路がそれを受け入れ、回復するための「通過儀礼」のような存在になっていることを身に染みて知った。
 それは僕が札所の住職として、孫の遺影を胸にかけた人や、恋人の骨を持って巡拝する若者と毎日のように出会う生活の中でも、感じ続けていることでもある。
 そこには明確な答えがないことも多いだろう。しかし歩きながら積み重ねる死者との時間が、その苦しみにある種のやわらかい深みを持たせる。

人は“ぶらつく”ことを求める

 やはり四国遍路にあるとても大きな存在が、冒頭に挙げた「サン・テーレ」ではないか。人々はこの人生の中で、時に誰からも邪魔されずのんびり歩き、ぶらつき、散歩したいのだ。そこにはもちろん自由な思索と祈りが含まれる。
 そこで心と体がゆるむからこそ、著者のようにふと、とてつもなく大きな星の音が聞こえてくるような、空海の宇宙観を追体験することもある。人々はその聖性とともにあることすべてを込めて「同行二人」と呼んできた。僕の耳にも、空海の生まれた七十五番札所・善通寺で小学生だった娘が叫んだ「あの流れ星が、大日如来だと思う」という言葉が、大切に残っている。
 そして、今日も多くの巡拝者が四国遍路を歩く。
 本書を閉じる時、きっとあなたも、のんびりどこかを歩きたくなるだろう。そうだとしたら、それがこの本の一番大きな「功徳」だと思う。

新潮社
2025年3月13日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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