『ゴッホ 麦畑の秘密』吉屋敬著

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ゴッホ 麦畑の秘密

『ゴッホ 麦畑の秘密』

著者
吉屋 敬 [著]
出版社
筑摩書房
ジャンル
芸術・生活/絵画・彫刻
ISBN
9784480018120
発売日
2025/01/17
価格
2,200円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『ゴッホ 麦畑の秘密』吉屋敬著

[レビュアー] 金沢百枝(美術史家・多摩美術大教授)

生涯を辿り 描く人物像

 著者の「好き」であふれた本は、ありがたい。荒れ地の砂が、水を瞬く間に吸収するように、ささくれだった心にしみいり、癒やしてくれる。

 著者は、小学生のとき画集でゴッホの絵に出会い、60年間オランダで暮らしてゴッホを追いかけた画家だ。本書では、ときに紀行文、ときに小説のかたちをとりながら、ゴッホの生涯を辿(たど)る。耳切事件やピストル自殺などのエピソードから、「悲劇の画家」のイメージが強いが、著者はそれを虚像と言う。ゴッホの手紙を読みこみ、ゴッホが滞在した場所を網羅的に実地調査し、ゴッホ関係の展覧会やシンポジウムでの研究成果を踏まえて、著者が信じるゴッホ像を丹念に描きだす。そこには、観(み)る人を救う、新しい芸術を生みだそうと苦(く)悶(もん)するゴッホと、その理想に共感し、兄を支え続ける弟のテオ、一心同体となったふたりの姿がある。

 類書と異なり、本書の半分ほどが、南仏以前のゴッホに割かれており、オランダ人としてのゴッホに焦点をあてている。画商と牧師を輩出する質実な良家に生まれ、画商として人生をスタートするが失恋の痛手から挫折。牧師をめざすが、受験に失敗。聖職者への道を諦めきれず炭鉱で滅私奉公し、またも挫折。自傷癖、父との確執、頑迷さと希望。ゴッホの新たな姿が浮き上がってくる。2016年、現代医学の見地から「境界性人格障害」と診断されたこと、殺人や狂言自殺の説がある事も知った。また、ゴッホがとくに気に入っていた日本美術はクレポン(縮(ちり)緬(めん)浮世絵)で、浮世絵の縮れ効果ゆえ濃縮された色と皺(しわ)が、ゴッホ特有の鮮やかな色彩と独特な筆致の源泉ということにも驚いた。

 南仏で、クレポンから自由になり、独自の画風で描いた「ひまわり」や「星月夜」。画家である著者の観察眼による絵の描写が秀逸だ。写生か模写でしか描けなかったゴッホにはきっと、著者の書くとおり、精神病棟から見る夜空に、渦巻く大気が見えていたに違いない。(筑摩選書、2200円)

読売新聞
2025年3月7日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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