『物価を考える』
- 著者
- 渡辺努 [著]
- 出版社
- 日経BP 日本経済新聞出版
- ジャンル
- 社会科学/経済・財政・統計
- ISBN
- 9784296120901
- 発売日
- 2024/11/26
- 価格
- 1,980円(税込)
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
『物価を考える デフレの謎、インフレの謎』渡辺努著
[レビュアー] 櫻川昌哉(経済学者・慶応大教授)
自粛規範が招いたデフレ
経済学は社会科学の一領域であり、理論武装して自然科学に近づこうとしてきたが、時として人文科学の顔をのぞかせる。精(せい)緻(ち)に作られた理論モデルよりも人々が紡ぎ出す物語が経済を説明してしまう時があるからである。人々の熱狂が生み出すバブルは典型であろう。本書は物価もまた物語によって作られると説く。
いつ頃からか、反インフレが善という認識が社会で共有され、企業は労働者に対して賃上げの自粛を迫り、消費者は企業に対して値上げの自粛を迫るようになった。そして賃金や物価は据え置かれるだろうという予想が、社会の奥深くまで染みついてしまった。賃上げの自粛と値上げの自粛はお互いに共鳴して強め合い、やがて社会のルールと化してしまう。この粘着性の高い認識を著者は「社会的な規範(ノルム)」と呼ぶ。社会規範がいったん形成されるとその解消は難しい。自粛の規範が30年の慢性デフレを支配したと説く。著者は、仮説を述べるにとどまらず、膨大な価格データを駆使して検証を試みる。そしてデフレの犯人は自粛という規範であると追い詰める。
ここ数年来のインフレもまた同じアプローチで説明できると述べる。海外の物価高による輸入インフレがきっかけとなって、人々はさすがに物価と賃金の据え置きは無理だろうと思うようになり、長く堅牢(けんろう)であった自粛の規範が溶けつつあると説く。
もし社会規範が物価を決めるとするこの説が正しいなら、「需要を増やせば物価は上昇する」という経済学の定説は書き換えられるかもしれない。金融政策に対する考え方もまた変わるだろう。物価目標を達成するためには、もはやマネーをばら撒(ま)く必要はなく、物価を支配する社会規範にピンポイントで影響を与える政策が望ましいということになる。
そういえば、かつて評論家の山本七平は、日本では大事なことは論理ではなく「空気」で決まると言っていたことを思い出す。物価もまた空気みたいなものということか。表現は平易であり読みやすい。それでいて著者の世界に読者を引き込む筆づかいは見事である。(日本経済新聞出版、1980円)