『1インチの攻防 ――NATO拡大とポスト冷戦秩序の構築 上下』M・E・サロッティ著
[レビュアー] 佐橋亮(国際政治学者・東京大教授)
未完の冷戦後秩序
今から35年ほど前、ベルリンの壁が崩れ、ドイツは統一へと向かっていた。それまで世界のもう一方を牛耳っていたはずのソ連はすっかりと弱まり、やがて破滅する。そして東欧やウクライナは、自分の身を守るために外からの大きな助けを必要としていた。
新たな秩序の到来がみえるなかで、それぞれが生き残りをかけ、覚悟を持って交渉に挑んでいた。本書は指導者たちが10年にわたりぶつかり合う物語だ。誠実な外交史の成果でもある。
結果から見れば、この冷戦終結期に作られた秩序は未完だった。軍事同盟NATO(北大西洋条約機構)が結局は東欧に拡大し、押し通されたロシアが不信を深める端緒が丹念に描かれる。
ロシアにはNATOが東に「1インチ」たりとも拡大しないとの約束があったはずで、自らの弱さにつけ込まれてそれが裏切られたとの思いが残された。そのような「約束」は合意文書に存在しないが、著者が解明するように米独の政治家の口から思わせぶりな発言は続いていた。それらが両者の明確な了解だったとは認めがたいが、感情的しこりを残すには十分だった。
本書は重要な役割を果たしたアメリカ政府高官たちの考えの多くを解明する。ロシアを圧倒できる力に酔いしれていたものも多かった。ウクライナへの配慮は不十分だった。本書でロシアの交渉力は一貫して弱いのだが、なぜなのか。その分析はさらなる研究を要しよう。
著者はウクライナに侵略したロシアを批判しつつも、当時にもっと別のやり方があったのではないかと読者に問いかける。同盟を拡大しロシアとの間に線を引くのではなく、全てを飲み込むような器は用意できなかったのかと。
もちろんこの主張に反論も多いだろう。戦争の原因を単純化しすぎていると。それでも外交の力に賭けてみるべきだとの著者の考えと対話してみてはどうだろうか。板橋拓己ほか訳。(岩波書店、各4180円)