『京都の歩き方』
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「観光地」に対する強固なイメージが解されて、もっと京都を知りたくなる
[レビュアー] 立川談四楼(落語家)
コロナ禍で京都行きが長く叶わなかった。いくらか制限が緩くなると、今度はインバウンドとやらで、外国人があふれた。飲食代や宿泊費が高騰し、京都行きは高嶺の花となった。では諦めるか。いや、そこへ本書なのだ。京都生まれの直木賞作家に、いずれその日がくるまで、しばし無聊を慰めてもらおうではないか。
本書の副題は「歴史小説家50の視点」であり、その1に「京都に暮らす人間は、『京都』を持たない」とある。意は「市内の観光スポットは『混雑するから、なるべく近づかないようにしよう』という場所だから」で、それで「『京都』を持たない」となるのかと納得。観光客(私も含め)は住む人のことをあまり考えないが、なるほどそういうものだろうと、のっけから得心したのだった。
実際は東京の方が多いのだが、京都と言えば五重塔とのイメージを私も持っている。その五重塔の話から、空海と最澄の対比が出てくる。著者は空海への供え物にコーラのペットボトルを発見して驚く。驚きつつ「空海はコーラを飲みそうだな」と思う。「同時に最澄は勧められても断固として断りそうな気がした」と綴るのだ。そうそうと思わず頷いてしまった。
京都に対する私自身の強固だったイメージが、読み進めるうちに解されるのが分かる。そしてもっと京都を知りたくなる。食べ物を例にとると「鹿はナマに限る?―危ない生食の古代史」にドキリとさせられる。「紫式部は鰯を食べたか」にも興味津々、大河ドラマ『光る君へ』ではそんなシーンを見なかったがと読むと意外な事実が。
「『京料理』の誕生」も目から鱗だった。そういう事情で、しかも近年という納得の理由があったのだ。
「かつてタケノコは果物だった」。え、野菜では? との軽い驚きとともに、そういうことかとまた得心する。私は京都の初心者であったことを思い知った。知らないことが多過ぎる。で、私は一体いつ京都へ?