【書評】自分の思考や存在そのものがいかにあやふやなものであるか徹底して描かれている。――三崎亜記『みしらぬ国戦争』【評者:杉江松恋】
レビュー
『みしらぬ国戦争』
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【書評】自分の思考や存在そのものがいかにあやふやなものであるか徹底して描かれている。――三崎亜記『みしらぬ国戦争』【評者:杉江松恋】
[レビュアー] カドブン
■私たちは見えない「敵」と戦っている――。
三崎亜記『みしらぬ国戦争』レビュー
【書評】自分の思考や存在そのものがいかにあやふやなものであるか徹底して描か…
評者:杉江松恋
世界に形を与えるのは、言葉だ。
三崎亜記『みしらぬ国戦争』は人間と社会の不自由なありようを描いた小説である。人間はそれぞれが孤立した存在だが、言葉が媒介することで唯一他の誰かとつながることができる。だがそれは、人間が自分の生み出した言葉に支配される存在であることも意味する。
物語の舞台は、私たちの住むこの場所に極めてよく似た国である。だが現在の日本と決定的に違うのは、敵国から侵略を受けていることだ。敵国とは言うものの、その実体はわからず、「Unidentified Neighbor Country(未確認隣接国家)」、略して「UNC」が呼称として定着した。しかし戦争という表現は忌避されており、この国は二年前から「非平和状態」にあることになっている。UNCからの攻撃による被害者は新型ウイルスの罹患によるものとして公式発表されるのである。言葉の操作によって現実には膜がかけられ、何が起きているのかが国民の目からは隠されている。
物語の前半は二つの叙述によって進んでいく。双方の序盤では状況がどのようなものかがエピソードを重ねながら綴られていく。視点人物の一人であるユイは、海岸線で目にした漂着物を報告するという、意味があるのかわからない国防の下級業務に就いている。海の向こうからたどり着いたものの中には、どこの誰に使われているか全く知られていない文字が記されていることがあるのだ。その文字と言語に、ユイは深く関心を抱いている。
もう一人の奥崎は国家保安局工作班の所属だ。UNCの侵略行為は巧妙で、災害や事故と見分けがつかないようになってきている。危機意識を低下させないためには、侵略が実際に行われているという証拠を国民につきつけることが必要になる。UNCがやったと国民にわかる形のテロの痕跡を作り出すことが奥崎たち工作班の任務である。
状況が動き始めるのは、ユイが関心を持つ文字が人の口から発せられる言葉でもあることが確認されてからだ。その言葉による歌を口にする女性が登場する。彼女の歌が知られることにより、言葉は「ミシラヌ」と呼ばれる国のものとして認知されるようになっていくのである。侵略者であるUNCと平和の象徴であるミシラヌとは対の存在として扱われるようになる。
本作の特徴は綺麗な対称形が随所で描かれる点だ。UNCとミシラヌだけではなく、ユイと奥崎の関係もそうだ。彼らが実は過去に関わりを持っていたらしいということが、登場人物よりも先に読者には知らされる。民間人で雇用が流動的な状態にあり、さらに女性であるユイと、下級ではあるが官僚組織の一員、かつ男性である奥崎とは、属性の一つひとつが対照的である。このように属性がわかりやすい形で付されていることには意味がある。それらはあくまで付与された物で、本質ではないのだ。だから簡単に外れるし、価値基準が引っくり返ることもある。だがそうした自身の本質ではないものでしか、自分が何者であるかという説明のしようがないのが人間なのである。自分というものがいかにあふやな存在であるかということが徹底して描かれていく。
あるいは思考さえも自分のものではなく、外から植え付けられたものかもしれない。だとすれば自分とは何なのだろうか、という存在不安が本作では根底にあるものだ。UNCを巡る状況がどのようなものかという真相が見え始めると、その不安が恐怖に変わっていく。それはあまりに身近で、明日我が身に起きてもおかしくないものだからだ。作中では陰謀に踊らされる人々が登場するが、そうした滑稽さを私は絵空事と笑うことができなかった。SNSを満たす虚偽の数々や議論の対立によって、社会があまりにも容易に分断されてしまう現実を体感しているからだ。ここに描かれる不安と恐怖は、誇張された現実の似姿なのである。
2005年に発表されたデビュー作、『となり町戦争』(集英社)は、アルバイトのような気軽さで現実の戦争に従軍することになる人々を描いたものだった。平和な日常が続く世界のすぐ隣に戦争の恐怖が存在するという対照性は、小説に幻想性を付与した。それから20年後に書かれた続篇ともいえる『みしらぬ国戦争』は、より一層現実の側に引き寄せられた作品だ。この作品では、何が日常で何が非日常であるかという線引きさえ人間から奪われているからである。それはただ、与えられるだけなのだ。人間性が徹底的に奪われた世界とはこのようなものだと三崎は語る。静かに、淡々と。