『新訳 赤毛のアン』
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これからの女の子たちへ。かつての女の子にも。――『新訳 赤毛のアン』モンゴメリ【文庫巻末訳者あとがき:河合祥一郎】
[レビュアー] カドブン
モンゴメリ 著、河合祥一郎 訳『新訳 赤毛のアン』(角川文庫)の刊行を記念して、巻末に収録された「訳者あとがき」を特別公開!
これからの女の子たちへ。かつての女の子にも。――『新訳 赤毛のアン』モンゴ…
■モンゴメリ『新訳 赤毛のアン』文庫巻末訳者あとがき
訳者
河合祥一郎
■『赤毛のアン』の文学性
『赤毛のアン』の魅力は多々あれど、最大の魅力は、感じやすい心を持つアンのロマンティックな想像力にあると言えるだろう。独りで汽車に乗って知らない村へやってきて、来るはずの迎えの人が来ないとなれば、通常の人間なら心配で途方に暮れるだろうに、この少女は、駅の近くの桜の木に登って一晩明かせば明日はきっとお迎えにきてくれるだろうと楽観視し、「月明かりに白いお花が浮かびあがる桜の木で眠るなんて」「大理石のお屋敷に住んでいるつもりになることだってできる」から「すてき」と夢見る──このロマンティックな想像力こそ、アンの本質と言えるのではないだろうか。
アン自身、自分の想像力を自らの強みとして認識しており、それは彼女の文学好きを助長する。そんな文学少女アンを創り出した作者L・M・モンゴメリの文学的教養がこの作品の中に綿密に織り込まれている。シェイクスピアを専門とする英文学者の私が本書を訳す意義は、その文学性を余すところなく汲み取るところにあると考え、その点を特に配慮して丁寧に訳した。後述するように、この小説は英文学作品への縦横無尽な言及を駆使してできあがっているからである。
まず驚くべきことに、アンは十一歳にしてすでに、シェイクスピア作品に精通している!
初対面のマリラに「コーディーリアって呼んでもらえますか?」と言うのは『リア王の悲劇』のヒロインの名前であるし、「『バラは、ほかのどんな名前で呼ぼうとも、甘い香りは変わらない』って本で読んだことがある」(72ページ)と言う本とは『ロミオとジュリエット』のことであるし、マシューに「“雪花石膏の額”って書いてあった」(38ページ)と言うのは、悲劇『オセロー』に書いてあったということだ。フィリップス先生が岩梨をプリシー・アンドルーズにあげながら「美しいものは、美しい人へ」と言っているのを聞いてアンが「先生にも想像力があるってわかったわ」(261ページ)と言うのは、これが『ハムレット』で王妃が亡きオフィーリアに花を捧げるときのセリフであるからにほかならない。恐るべき小学生である。
すてきなものを美しく表現することがアンにとっては重要であり、だからこそ彼女はアヴォンリー村(プリンス・エドワード島のキャベンディッシュがモデル)に来たとたんに、りんごの白い花のトンネルになっている美しい並木道を“歓びの白い道”と命名し、この世のものとも思われぬ多様な色合いのきらめきを見せるバリー家の池を“きらめきの湖”と命名する。名前はアンのロマンティシズムを支える重要な要素であり、アンの名前に“e”がつかなければならないのも──ジョゼフィーヌやクリスティーヌなどの「ヌ」の響きをイメージしてもらえばわかりやすい──“e”はアン(ヌ)にとってロマンティシズムの象徴となるからである。表現への執着は、言葉へ、文学への憧憬となって開花する。
アンは孤児院で勉強していたころから教科書の『読本』に載っていた多くの詩を暗誦でき、なかでもサー・ウォルター・スコットの『湖上の麗人』やジェイムズ・トムソンの『四季』はほとんど憶えているというから驚異的だ(75ページ)。教科書に載っていたのが簡略版だとしても、どちらも数千行に及ぶ長詩なのだ。それをほとんど憶えているという。常人ではない。
なお、第十九章で、フィリップス先生が「シーザーの遺体を前にしてマーク・アントニーが演説する場面」を朗誦し、それを聞いてアンが、「今その場で立ち上がって暴動に加わってもいいという気持ちに」なったのは、先生がシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』第三幕第二場から、次の文句で終わるアントニーの有名な演説を朗誦したからだ。
もし私がブルータスで、ブルータスがアントニーだったら、
そのアントニーは君たちの胸に怒りの火をつけ、シーザーの
傷口一つ一つに舌を入れて訴えさせるだろう。さすれば、
ローマの石でさえも立ち上がって暴動に走るだろう。
(訳は角川文庫の河合訳より)
ここまでくると、少女アンの背後に文学通の作者の存在が重なり始め、アンの文学好きのレベルを越えて、作者自身の文学好きが露呈してくる。わかる人にはわかるという形で、地の文で引用符もつけずにシェイクスピアの表現を使った書き方をするのも、作者の書きぶりの特徴と言えるだろう。例えば、第二十四章冒頭の「かたつむりのようにのろのろとどころか、すばやく元気に学校へ駈けて行く少女たち」という表現は、喜劇『お気に召すまま』第二幕第七場にある人生の七つの時代の第二である「かばんをさげて、/輝く朝の顔をして、かたつむりのように/しぶしぶ学校に通う」児童への言及を踏まえており、第二十六章に「学校生活は疎ましく、腐った、つまらぬ、くだらないものに見えた」とあるのは、悲劇『ハムレット』の第一独白の次の部分をもじったものである。
ああ、神よ! 神よ!
この世のありとあらゆるものが、この俺には何と疎ましく、
腐った、つまらぬ、くだらぬものに見えることか!
あえて引用符をつけずに地の文の中に紛れこませてあるのは、読者が自分で気づいて楽しむことを期待して書いたと思われるので、この翻訳でも訳注は最小限にとどめた。ただし、第十四章の「目に見えない風」(161ページ)がシェイクスピアの『尺には尺を』第三幕第一場にある表現に基づくことは、原文の表現(viewless winds)を見ないとさすがにわからないので、ここに記しておく。ほかにも、第二十五章で店に女性店員がいるのを見てまごついたマシューが、その腕輪の音に「一撃で」(at one fell swoop)頭の中が真っ白になってしまう(315ページ)のは、『マクベス』第四幕第三場で妻子を殺されたマクダフが言う「一撃でか?」に基づいており、第二十五章で、アンこそがこのとき「ひと際明るく輝く星」だったとあるのは、『終わりよければすべてよし』第一幕第一場にある表現である。
■詩に始まり、詩に終わる
『赤毛のアン』は詩に始まり、詩に終わる構造を持っている。タイトル・ページに附された詩の一節は題名の一部を成しており、アンが「精と炎と露より作られ」ていることを示す。これはヴィクトリア朝を代表するロバート・ブラウニング(一八一二~八九)の詩「イーヴリン・ホープ」(一八五五)の第三連からの引用であり、「そなたの魂は純粋にして真実」という一行に続く二行である。英文学に詳しい人なら気づいたかもしれないが、『赤毛のアン』は、このブラウニングの代表的劇詩「ピッパが通る」(一八四一)の有名な一行を以て終わっている。この詩は上田敏訳(「春の朝」、一九〇五)が有名なので、その訳をここで紹介しよう。
時は春、
日は朝、
朝は七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀なのりいで、
蝸牛枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。
ブラウニングは夏目漱石や芥川龍之介が愛した詩人としても知られるが、もう一人のヴィクトリア朝の代表的詩人アルフレッド・テニソンもまた、漱石を始め、日本文学に大きな影響を与えた詩人である。アンがアヴォンリー村の学校に通うようになって、友だちと「エレーヌ姫」ごっこをしてボートを沈めてしまったときも、テニソンの詩「ラーンスロットとエレーヌ」(『国王牧歌』所収)にのめり込んでのことだった。まさにこの詩を、漱石が「薤露行」という題で翻案している。漱石の美文でこの詩を読めば、アンたちのロマンティシズムもいくらかわかりやすくなると思うので、「薤露行」から該当部分を少し紹介することにしたい。
ラーンスロットを想いながら死を決意したエレーヌは、「ありとある美しき衣にわれを着飾り給え。隙間なく黒き布しき詰めたる小船の中にわれを載せ給え。山に野に白き薔薇、白き百合を採り尽して舟に投げ入れ給え。──舟は流し給え」と言い残して死に、父と兄が「遺言の如く、憐れなる少女の亡骸を舟に運」んで流す。「舟は杳然として何処ともなく去る。美しき亡骸と、美しき衣と、美しき花と、人とも見えぬ一個の翁とを載せて去る。翁は物をもいわぬ。ただ静かなる波の中に長き櫂をくぐらせては、くぐらす」──ちなみに原作には舟をこぐ翁がいたわけだが、アンたちは、ボートが小さすぎるために「なし」にしたわけである──流れゆく彼女の「屍は凡の屍のうちにて最も美しい。涼しき顔を、雲と乱るる黄金の髪に埋めて、笑える如く横わる」──原文の「微笑むかのごとく横たわりて」を漱石は「笑える如く横わる」と変えたわけだ。このあとボートが沈没さえしなければ、キャメロットの水門に流れ着き、そこでアーサー王と王妃グウィネヴィアと騎士たちに迎え入れられ、王妃が「透き徹るエレーヌの額に、顫えたる唇をつけ」、「美しき少女!」と言って一滴の熱き涙を彼女の冷たき頰の上に落として終わるはずだったのである。
漱石がらみでもうひとつ。『吾輩は猫である』で、猫の吾輩が「グレーの金魚を偸んだ猫ぐらいの資格は十分ある」(第二話)と主張するのは、詩人トマス・グレイが詩「金魚鉢で溺れた愛猫の死を悼む歌」(一七四八)で詠った猫への言及なのだが、そのグレイの代表作「田舎の墓地にて詠める挽歌」(一七五一)は名作として知られる。漱石もその冒頭の二行を「暮鐘は韻を伝えて逝日を弔い、/群羊の歩み遅くして曠野に啼く」と漢詩に訳したほどだが、その第二十四連に「いずれかの魂の響き合う友(kindred spirit)、汝が運命を尋ねん」とある。アンもまた、この詩を漱石同様に愛誦していたことがわかる。真に英文学の世界は豊かである。
なお、『赤毛のアン』という題名は村岡花子さんがつけたものだが、日本ではその名で広く知られているため、そのまま踏襲させていただいたことをお断りする。
次巻『アンの青春』で、アンは母校の教師となる。家ではマリラが引き取った双子の世話に大わらわ。そんな折、新しい友人ができる。ミス・ラベンダーという白髪の女性で、二十五年前に婚約者とケンカ別れして以来ずっと独身だ。若き日の失恋に今も苦しむ姿に、アンは……。実は、次巻はモンゴメリの夢が託された作品だ。彼女の人生、愛した文学について知らなくては真に読解できない。そのあたりをあとがきで丁寧に解説していますので、ぜひお楽しみに。
二〇二五年二月
河合祥一郎
■作品紹介
これからの女の子たちへ。かつての女の子にも。――『新訳 赤毛のアン』モンゴ…
書 名:新訳 赤毛のアン
著 者:モンゴメリ
訳 者:河合 祥一郎
発売日:2025年03月22日
NHKアニメで話題!全女子に贈る、世界中が恋した永遠の名作を新訳&全訳
Anne of Green Gables
By Lucy Maud Montgomery,1908
これからの女の子たちへ。かつての女の子にも。
【NHKアニメで話題】
本当の子じゃない。でも、家族になれた。――永遠の名作を新訳&完全訳で。
偏屈な年寄り兄妹マシューとマリラは、孤児院から働き手として男の子を引き取ることに。なのにやってきたのは、赤毛でそばかすの少女アン。マリラはアンを追い返そうとするが、アンは号泣し…。自然豊かな美しい島を舞台に、夢見る少女が起こすおかしな騒動。そそっかしくて失敗ばかりのアンが感動をもたらします。泣いて笑ってキュンとする、世界中の少女が恋した名作を新訳・完訳で。アンが親しんだ英文学の徹底解説も掲載。
「新訳 赤毛のアン」シリーズ、1~3巻を、2ヵ月連続刊行
1巻『新訳 赤毛のアン』発売中
2巻『新訳 アンの青春』2025/4発売
3巻『新訳 アンの初恋』2025/4発売
英文学研究の第一人者だから訳せた、文学少女としての『アン』。
訳者あとがきで、アンが親しんだ文学作品についても徹底解説!
カバーイラスト/金子幸代
カバーデザイン/鈴木成一デザイン室
※本書は二〇一四年三~四月に角川つばさ文庫より刊行された児童書『新訳 赤毛のアン(上) 完全版』、『新訳 赤毛のアン(下) 完全版』を一般向けに大幅改訂したものです。なお、訳者あとがきは書き下ろしです。
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