『熟柿』
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人生とは悔恨の連続。暗い道を歩く 寂しさと孤独を共有する小説
[レビュアー] 杉江松恋(書評家)
決して息子には届かない手紙…(※画像はイメージ)
取りにいけない忘れ物がある。
その事について思い出したとき、胸に去来する感情を悔恨と呼ぼう。佐藤正午はそれを書く術に秀でた作家だ。新作長篇『熟柿』では十七年越しの悔恨が描かれる。
誰からも疎まれる存在だった伯母が亡くなり、田中かおりは葬儀に出る。その帰途、泥酔した夫を乗せて車を運転していた彼女は、老婆を撥ね、死なせてしまった。そのとき妊娠していた子供を栃木刑務所内で産み、二年半の服役期間を過ごす。出所した彼女に夫は、母親が人を殺した前科者であることを子供に知らせないために、と離婚を迫った。届に判を押し、田中かおりは市来かおりに戻る。
そこから始まる彼女の彷徨を描いた物語である。わが子についてかおりに残されたのは、出産後の授乳時に抱いて、耳たぶの裏にホクロがあるのを見たという僅かな記憶だけだ。やがて彼女はノートに、息子である田中拓への手紙を書き綴るようになる。決して本人には届かない手紙だ。
かおりは思慮深い人間ではない。わが子が通う幼稚園の場所を知れば、駆けつけて無断で侵入し、騒動を起こしてしまう。彼女の行く末を心配して親身になってくれた人の助言を「だいたい」で聞き流す軽率なところもある。自身の人生を俯瞰で眺められるような深慮など持ち合わせていない。だからこそ忘れ物をする。不完全なのである。私たち皆が、そうであるように。
かおりが出所して孤独になり、人生の苛酷さを体験するのは東日本大震災後の二〇一〇年代である。日本を覆い尽くした閉塞感も作品には反映されている。支えてくれる人がいないかおりの不安を我が事のように感じる読者も多いはずだ。主人公とともに孤独になり、暗い道を歩く寂しさを共有する小説なのである。
題名の『熟柿』が意味するものは、結末近くで明かされる。長い行脚の果てにかおりは安寧を得ることができるのか。祈り、そして読んだ。