隣の国がどんな道を歩んで現代にいたっているのか。斎藤真理子が訳する韓国文学

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隣の国がどんな道を歩んで現代にいたっているのか。斎藤真理子が訳する韓国文学

[レビュアー] 石井千湖(書評家)

 ノーベル文学賞を受賞したハン・ガンの次に、ぜひ注目してほしい韓国の作家がファン・ジョンウンだ。翻訳者の斎藤真理子曰く〈世界じゅうが黙り込むような大事件が起きたとき、「あの人は何を考えているだろうか」と真っ先に思い出す〉作家。『誰でもない』には、二〇一二年から二〇一五年に発表された短編八編が収められているが、そのうち四編は名だたる文学賞を受賞しているという。

 都会暮らしに疲弊して田舎に救いを求める非正規労働者、貧しさに耐えてがんばっても報われない家族、IMF危機の最中に言葉のわからない異国で困難に直面する夫婦など、本書はけんめいに生きているのに「誰でもない」と見なされる人々に光をあてる。不安定な立場に置かれている「誰でもない」人が、さらに弱い他者を「誰でもない」人として扱う瞬間も描く。ある事件の目撃者になった書店員が行方不明の娘を探して現場に通い続ける母親を見おろす「ヤンの未来」、愛する人を失い部屋に引きこもる若者が停留所で倒れる寸前の老人をよけてバスに乗った日のことを思い出す「笑う男」……それぞれの瞬間の描き方は精確すぎて恐ろしいほどだ。

 恐ろしいけれど、動物や食べ物のちょっとした描写が魅力的で、語り口にはユーモアがにじんでいる。ファン・ジョンウンの小説は、すべての文章が有機的につながり、一部を切り取るのが非常に難しい。読んでいるうちに、自分や世界についてさまざまな思考の種がまかれ、根を下ろしていく。

 他にも韓国文学の素晴らしい短編集が文庫になっている。チョン・イヒョン『優しい暴力の時代』(河出文庫)は、一九九五年に起こったデパートの崩壊事故をもとにした「三豊百貨店」など八編を収める。李(イ)箱(サン)『翼』(光文社古典新訳文庫)は、韓国で最も権威がある文学賞に名前が冠されている作家の作品集。小説だけではなく詩や随筆も収めている。この二冊も、翻訳を手がけたのは斎藤真理子。隣の国がどんな道を歩んで現代にいたっているのか、文学的な視点で考えたいとき入口になる本だ。

新潮社 週刊新潮
2025年4月24日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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