初めて知った俵万智『サラダ記念日』の「弱点」――読み進めるほどにぐっとくる「言葉」と「日常」の大切さ

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

生きる言葉

『生きる言葉』

著者
俵 万智 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
語学/日本語
ISBN
9784106110832
発売日
2025/04/17
価格
1,034円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

初めて知った俵万智『サラダ記念日』の「弱点」――読み進めるほどにぐっとくる「言葉」と「日常」の大切さ

[レビュアー] 物江潤(作家)


新書『生きる言葉』を刊行した俵万智さん

 スマホとSNSが社会に浸透したことで、ふとした言葉が相手の誤解や思わぬ対立を生んでしまう場面が増えている。

 そんな時代に、歌人・俵万智さんが『生きる言葉』(新潮新書)の中で投げかけるのは、「普通の人が普通に使う書き言葉としての日本語の、足腰を鍛える」ことの重要さだ。

 恋愛、子育て、SNS、演劇、歌会など、さまざまな場面で交わされる言葉をめぐり、自身の経験と重ねながら丁寧に見つめ直していく俵さん。

 社会現象ともなった『サラダ記念日』から37年、今あらためて言葉とどう向き合うべきなのか。批評家・物江潤氏が本書を読んで驚いたこと、そして心を動かされた言葉とは――。

 ***
 
 あのサラダ記念日には、実は作者の気に入らない箇所がある――。
 このことだけでも驚きでしたが、その気に入らない理由の繊細さには参りました。

  「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 誰しもが知ると言っても過言ではないこの短歌に対し、俵万智氏は「サラダのS音との響きあいを考えて、六月ではなく七月を選んだのは正解だった。が、いまだに実は「味」の「じ」という濁音が私は気になっているし気に入らない」とします。濁音には強みがあるものの「爽やかさや滑らかさは薄れてしまう」という弱点があるとし、その弱みが「じ」に強く表れてしまったと俵氏は考えているようです。恥ずかしながら、これほど繊細に短歌が作られているとは思いもしませんでした。
 本書には、著者による子育て・ドラマ鑑賞・SNS上での体験といった、身近に感じられる出来事が数多く登場します。共感できる身近な話題だけあって、ある意味では取り立てて特筆することのない平々凡々な体験かもしれません。が、読み進めていくと、それは良い意味で裏切られることになります。

  それぞれの家の洗剤の匂いして汗ばんでゆく子らのTシャツ

 狭いリビングに息子の友達がひしめく。週末になると、たいてい誰かが泊っていく。彼らと遊んだり着替えの手伝いをしたりするうちに、それぞれの家で使われている洗剤の違いに気付いた俵氏は、そんな些細な出来事を短歌に昇華してみせます。
 取るに足らないように思える日常のワンシーンなのに、たった31文字が添えられた途端、豊饒なイメージが喚起される色鮮やかな出来事に様変わりしてしまう。「じ」の濁音に対し、いまだに「気に入らない」とした俵氏は言葉の一つ一つを大切にしているだけでなく、それと同じくらい日常を大事にしていることが伝わってきます。違った言い方をすれば、言葉を大切に使うからこそ、何気ない日常が豊かになるのでしょう。本書全体を通じ要所で添えられる短歌は、そんなことを雄弁に物語っています(蛇足ですが、話が進むと適宜短歌が添えられるという構成は『男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』とそっくりであり、同シリーズのファンとしてはぐっときました)。
 ところが、この素敵な短歌は悪意によって捻じ曲げられてしまいます。SNSに投稿したところ「あの洗剤のにおいが、香害となっています」「洗剤のニオイが服から揮発して、夏の空気に充満するなんて異常だと思う。どれだけ多くの人が苦しんでいることか」といった批判だけでなく「香害を知らぬか知ってか加担するこの罪の重さは海よりも深い」と、ご丁寧に短歌で抗議をする人まで出現するのです。
 なぜ、こんな悪意に満ちた反応ができてしまうのだろうか。そんなことを思いながら読み進めていくと、どうやらヒントになりそうな文章に出会いました。

「短歌は短いものなので、一瞬でできることもある。が、その一瞬にいたるまでの時間の長さや深さが、必ず反映する。氷山の一角というのは悪いことの描写に用いられるが、絵面としてはあの感じだ。世界に顔を出している短歌は小さいものだが、その水面下には人生の元手が隠れている。隠れているものが大きいほど、氷は輝く。」(同書より)

 人生の元手が重要になるのは、詠み手側だけでなく受け手側も同様なのでしょう。短歌の下にある人生の元手に思いをはせたり、時には自分自身の元手と比較したりすることで、31文字は色とりどりの解釈がなされるように思います。
 一方、先述した悪意に満ちた反応は、こうした手続きを踏みません。水面から顔を出す作品に対し、特定の思想・嗜好という名の絵の具を使い、独りよがりに塗りつぶしてしまうのです。これでは、短歌の良さなんて味わえるはずがありません。それに何に対しても同じ色で染め上げてしまえば、単調で退屈な毎日が待ち構えているような気がするのは私だけでしょうか。
 さて、そんな人生の元手について、また違った角度から考えさせられたのが、俵氏が参加するホストたちとの歌会での出来事です。
 短歌の新人賞に応募するため熱心に取り組んだホスト達の歌には「幼いころに受けた性的虐待」「父の死と娘の誕生」「震災での被災経験」といった、非常に重いテーマが選ばれていました。遊び半分ではなく、彼らは真剣に短歌と自分の人生に向き合っていたのです。
残念ながら、応募した作品は全て落選してしまいます。現実はなかなか厳しい。しかし、それでも俵氏は「彼らが、短歌を通して自分の人生を振り返り、言語化することで何かを乗り越えたという手ごたえ」を感じ、「そしてそれこそが短歌を詠む意味だろう」と評するのです。

  作品は副産物と思うまで詠むとは心掘り当てること

「人生の元手」は、短歌同様に様々な解釈ができる言葉ですが、そのなかの一つに掘り当てるべき「心」があり、その「心」を縁として短歌を詠むからこそ大きな意味が生まれるのでしょう。できた作品という結果ではなく、掘り当てるという行為に本当の価値があるとする考えには深く共感しました。先述した洗剤の短歌にしても、作品が生み出される過程(行為)で日々に彩りが添えられていくことを考えれば、やはり短歌そのものというよりは過程(行為)の方が大切になってくるように思います。短歌は副産物なのだとする考えは、本書における最大の発見でした。
 特別な能力や経済力は不要。できたものが高く評価されなくても全く問題なし。日本語さえ使えれば詠むことができて、しかも自分の壁を壊したり日常を鮮やかにしたりしてみせる短歌の魅力は、本書が存分に伝えています。言葉と日常を大切にする一歩として、本書を手にとってみてはいかがでしょうか。

新潮社
2025年4月24日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク