『手段からの解放』
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『手段からの解放 シリーズ哲学講話』國分功一郎著
[レビュアー] ドミニク・チェン(情報学研究者・早稲田大教授)
目的断ち切り 真の楽しみ
「楽しむとはどういうことなのだろう」と哲学者は本書の冒頭で読者に問いかける。一見すると自明だったり、他愛なく映るかもしれないこの問いはしかし、人間の実在に関わる深刻な影響を放っている。著者の國分功一郎は、代表作となった『暇と退屈の倫理学』(2011年)の中で、「消費」に対して「浪費」という概念を提起した。資本主義経済の中で、私たち現代人は暇と退屈という苦痛を、外から与えられた商品や情報をひたすら消費することで緩和するが、これは決して満足につながらない。そうではなく、過剰な価値を自ら見(み)出(いだ)し、満足を生み出す浪費によって自由を経験できるのだ、と。
しかし、浪費的に楽しむとは一体どういうことなのかという問題が残っており、そのことに向き合ったのが本書である。そこでイマニュエル・カントの「享受の快」という概念に基づいて、ある目的を達成するための手段として味わう楽しみは不純であるという。たとえば健康になるために味(み)噌(そ)汁を飲むという場合、健康という目的に味噌の味わいが隷属する。そうではなく、目的と手段の連関が断ち切られた状態で、味噌の風味にただただ感覚を委ねる時、快は享受される。これは評者が想起した例だが、あらゆる快を生む経験に適用できる論理だろう。
本書を読んで、國分哲学の探究が放つ現代的な意義はますます深まるように感じた。それは意志と責任に対する別様の捉え方を提示した『中動態の世界』(2017年)の中で彼が着目した依存症の問題が、本書において中心的な位置を占めていることも関係する。楽しむ経験を奪う依存症の問題は、アルコールや薬物に限定されるものではなく、ユーザーを中毒状態にするように洗練されてきた情報技術が孕(はら)むものでもある。今日、スマホの普及と並行して情報的な依存症の傾向が世界中に広がり、社会問題を引き起こしている。欲望が恒常的に計算機によって調整される世界の中で、わたしたちが主体的に楽しむ、つまり自由を得るためには何が可能なのか。本書はこの問いへの理路を力強く照らしてくれる。(新潮新書、968円)