『野性のスポーツ哲学 「ネアンデルタール人」はこう考える』
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
『野性のスポーツ哲学 「ネアンデルタール人」はこう考える』室伏重信著
[レビュアー] 為末大(Deportare Partners代表/元陸上選手)
実践から得た投てき術
1970年から2014年までの陸上競技の日本選手権ハンマー投げで、室伏重信・広治親子の優勝は32回、優勝率は7割を超えている。私の現役時代は最初から最後まで室伏家時代だった。その重信さんが自らの競技人生を振り返っている。
1970年代は何が正しいことかわからなかった。科学も未発達で、伝達技術もない。自分の動作を客観的に見るためのビデオすらなかった時代だ。役者が鏡のない部屋で演技の練習をするようなものだ。今から考えれば不足だらけの中、自分の感覚だけで技術を追求していった。和室で歩き方から改善する様子は、王貞治さんの真剣でのバッティング練習を彷(ほう)彿(ふつ)とさせる。
半世紀前のアスリートと現代の選手を比較すると、コメントに違いがあると感じる。かつては包括的で哲学的な発言が多く、今は具体的で分析的なコメントが多い。過去と現在の一番の違いは分業だ。今は栄養、心理、フィジカルと、各専門家がアスリートを取り囲む。選手は競技に集中することができ、だからこそ競技力が向上している。
専門家もいない昔は間違いも多かった。一方で、全て実践から着想されたものでもあり、包括的でもあった。物が飛ぶとはどういうことか。なぜハンマーを投げるのか。全て自分でやるしかなかったからこそ、アスリートの言葉が哲学的になったのではないだろうか。
「遺言のつもりで書いた」とつづられる最後の章のタイトルは「無から有へ、有から無へ」だ。ビッグバンから始まる宇宙のスケールと、故郷である静岡県函南町での3歳頃の個人風景を行き来し、今なお新しい発想が浮かび続けているという。
陸上競技は儲(もう)からない。それほど有名にもならない。にもかかわらず、なぜ人は没頭するのか。最高の走りをした時、体の芯から生命が燃える感じがするのだ。その余韻は生涯消えない。(集英社新書、1045円)