『翻訳する私』
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ベンガル語が母語の英語圏ベストセラー作家が追求する「翻訳とは?」
[レビュアー] 鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)
ジュンパ・ラヒリ久々の英語作品であり、翻訳とがっぷり四つに組んだエッセイ集で興奮する。彼女は今、「書く者」であり、イタリア文学を「翻訳する者」であり、自分の英語・伊語の作品を「翻訳される者」でもあるのだ。
ベンガル語を母語とするラヒリは、「継母語」と自ら評する英語で創作して、世界的名声をものにした。英語での創作行為にはベンガル語を翻訳している感覚があり、自分は作家になる前から翻訳家だったと言う。
ところがそこに、第三の言語が現れる。二十代で深く魅了されたイタリア語だ。英語圏で最も成功した小説家がイタリア語で書き始めたのが約十年前である。
本書でラヒリは詩的な暗喩を重ねながら「翻訳とはなにか?」を追究する。私たちが目にするのは、当世の「トランスレーション・スタディーズ」では決して辿りつけない境地だ。翻訳者とは、同じ言葉を繰り返すしかないからナルキッソスに愛を伝えられなかったエコーではない(これもラヒリの暗喩!)。自己翻訳とは本の第二幕を開けることだと、ラヒリは表している。
世紀の変わり目ぐらいから、翻訳は創作の下位のものではなく、独自の創造性をもつと主張する論が増えてきた。私は、翻訳は創作に対して二次的な成果物だと思うが、翻訳とは世界を再構築するものだというラヒリの考えには完全に同意する。
あとがき「変容を翻訳する」では、詩人オウィディウスの『変身物語』の翻訳を模索しながら、死という最も劇的な存在の変化について思索し、最愛の母との別れと向きあう。翻訳論としてのみならず自伝文学としての深みをもつ一編だ。
政治や経済的な理由で亡命する作家がいる一方、言語自体が書き手の人生を変えることがある。外国語とかかわる者は永遠の客(まれ)人(びと)であり、ラヒリはそこに自由を見いだしたのではないか。