『天使も踏むを畏れるところ 上』
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『天使も踏むを畏れるところ 下』
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『天使も踏むを畏れるところ』松家仁之著
[レビュアー] 鵜飼哲夫(読売新聞編集委員)
開かれた新宮殿求めて
昭和史には忘れられた史実が少なくない。先の大戦で、皇居内の宮殿が空襲で焼失、戦後は、宮内庁庁舎3階を改装した仮宮殿で皇室儀礼が行われたという事実もそのひとつだろう。「国民の暮らしが安定するまで宮殿など建てられない」という昭和天皇の意向もあり、新宮殿の計画が動き出すのは高度成長が始まってから。基本設計を担ったのは建築家、吉村順三(1908~97年)である。だが、造営を管理する宮内庁との軋(あつ)轢(れき)から68年の竣(しゅん)工(こう)前に任を辞した。
何があったのか。埋もれた過去を膨大な文献から掘り起こした本作は、ありえたかもしれない新宮殿の大壁画構想を鮮やかに描くなど、「史実に基づいて書かれたフィクション」だが、事実の背後にある真実に迫る気概にあふれる。天皇、皇室に嫁いだばかりの美智子さまは大胆にも実名で表記、ことばまで語らせた。
一方で、主要人物の宮内庁職員、天皇の侍従らは実名を外し、吉村がモデルの建築家は、村井俊輔という名にした。それによって当事者たちの心の奥底までを想像し、不和の背後にある歴史認識、建築観、生い立ちを細やかかつ大胆に造型、人々の息づかいが感じられる小説にした。要所要所の建築芸術論は、人々が暮らす土地や建築の形、構造から生まれたものゆえ実に具体的で、よき人生論としても読める。
象徴天皇制にふさわしい、「国民にひらかれた」宮殿を求める戦後の精神が全編にみなぎる。その中心にいるのが、人を威圧し、畏れさせる豪華絢(けん)爛(らん)な宮殿を厭(いと)い、人間の手足のスケールに見合う簡素な住宅を愛する村井だ。しかし、宮殿を「ハレの舞台」と考える宮内庁の牧野は権力を楯(たて)に、ことあるごとに村井の理想を打ち砕いていく。法理と非合理をない交ぜにした牧野の存在感は抜群で、日頃は表情に出さない村井が、つい口汚く罵(ののし)る場面には息をのんだ。
新旧、理想と現実など二項対立を超えた物語は細部も面白く、実に読み応えがある長編だ。(新潮社、上下各2970円)