『米原昶の革命』
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『米原昶(いたる)の革命 不実な政治か貞淑なメディアか』松永智子著
[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)
気品漂う共産党員の素顔
戦後の日本で『赤旗』の記者、さらに日本共産党の国会議員として活躍した米原昶(いたる)。現在では、ともに文筆家である米原万里・ユリ姉妹のエッセイに登場するおなじみの父親と紹介した方が、通りがいいかもしれない。
実家は鳥取県の名家であり、昶の父、章三は林業から交通業、百貨店などへと手を広げた大実業家。その息子が、昭和初期に共産主義の運動に身を投じて旧制高校を中退し、左翼活動家となる。戦時期には官憲の目からの逃亡生活を送ったのち、戦後に共産党員として社会復帰。一九五五年の党の方針転換のあとは、組織の中枢に一貫してとどまりながら活動を続け、東欧諸国や中国との交流にも力を注いだ。
この経歴だけ見ると、上流階級の出なのに口先だけラディカルになった人物と、現在では揶揄(やゆ)されそうである。しかし、階級の上下による差が生活のあらゆる面で大きく、権力による監視・懲罰がきびしかった時代の人は違う。
昶は、育ちがよかったがゆえに貧しい人々の境遇に胸を痛め、みずからを犠牲にすることをいとわなかった。権力への抵抗、また厳しい党内抗争のなかを生きのびたにもかかわらず、共産党の政治家らしくない穏やかな人物と評されたのも、名家で培われた気品のゆえだろう。
政治的には保守派の大物だった父親や、高校柔道部の同級生など、多くの職業の人々との豊かな交流が、米原昶の活躍を支えていたことがよくわかる。ジャーナリストとして『赤旗』を支え、国会議員時代に街の本屋を支援した点でメディアとの関わりが深いが、その人自身もまた、さまざまな人々をつなぐメディアだった。「あとがき」で語られる、著者と米原家との奇縁とも言える、執筆のきっかけも興味ぶかい。
本紙の読書委員会で、亡き万里さんとは二十年前にご一緒した。もし生前にこの本を読まれたら、ちょっと照れくさそうに「もっといい写真があるはず!」とか毒づきながら、全身から喜びを発しておられただろうと思う。(創元社、2970円)